世の中には途法も無い仁もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途法も無い処が即ち新の新たる極意かも知れん。
定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手当り次第に繰り展げた処が、
高きより飛び下りるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか
此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出来たら、至極ぢや。面白い処に気が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。
非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ
いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覚えずに過す人が、所謂当節の成功家ぢや。
何処やらに沢山の人が争ひて
鬮引くごとし
われも引きたし
何にしろ大混雑のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大概は空鬮ぢや。
何がなしにさびしくなれば
出てあるく男となりて
三月にもなれり
とある日に
酒をのみたくてならぬごとく
今日われ切に金を欲りせり
怒る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし
腕拱みて
このごろ思ふ
大いなる敵目の前に曜り出でよと
目の前の菓子皿などを
かりかりと噛みてみたくなりぬ
もどかしきかな
鏡とり
能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕達げて死なむと思ふ
よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり
さうぢや、そんなことがある、斯ういふ様な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた比の著者と比の読者との間にすら共通の感ぢやから、定めし総ての人にもあるのぢやらう。然る処俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が比の集中に満ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合点して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い淮にも承知の出来る歌も亦当節新発明に為つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。
犬の年の大水後
藪 野 椋 十
函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君
この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
著 者
明治四十一年夏以後の作一千余首中よ
り五百五十一首を抜きてこの集に収
む。集中五章、感興の来由するところ
相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。
「秋風のこころよさに」は明治四十一
年秋の紀念なり。
我を愛する歌
1
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
2
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
3
大海にむかひて一人
七八日
泣きなむとすと家を出でにき
4
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
5
ひと夜さに嵐来りて築きたる
この砂山は
何の墓ぞも
6
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
7
砂山の裾によこたはる流木に
あたり見まはし
物言ひてみる
8
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
9
しつとりと
なみだを吸へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな
10
大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり
11
目さまして猶起き出でぬ児の癖は
かなしき癖ぞ
母よ咎むな
12
ひと塊の土に涎し
泣く母の肖顔つくりぬ
かなしくもあるか
13
燈影なき室に我あり
父と母
壁のなかより杖つきて出づ
14
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
15
飄然と家を出でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど
16
ふるさとの父の咳する度に斯く
咳の出づるや
病めばはかなし
17
わが泣くを少女等きかば
病犬の
月に吠ゆるに似たりといふらむ
18
何処やらむかすかに虫のなくごとき
こころ細さを
今日もおぼゆる
19
いと暗き
穴に心を吸はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る
20
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
21
こみ合へる電車の隅に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ
22
浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心
23
愛犬の耳斬りてみぬ
あはれこれも
物に倦みたる心にかあらむ
24
鏡とり
能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時
25
なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗へば心戯けたくなれり
26
呆れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗を箸もて敲きてありき
27
草に臥て
おもふことなし
わが額に糞して鳥は空に遊べり
28
わが髭の
下向く癖がいきどほろし
このごろ憎き男に似たれば
29
森の奥より銃声聞ゆ
あはれあはれ
自ら死ぬる音のよろしさ
30
大木の幹に耳あて
小半日
堅き皮をばむしりてありき
31
「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止せ止せ問答
32
まれにある
この平なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴く
33
ふと深き怖れを覚え
ぢつとして
やがて静かに臍をまさぐる
34
高山のいただきに登り
なにがなしに帽子をふりて
下り来しかな
35
何処やらに沢山の人があらそひて
鬮引くごとし
われも引きたし
36
怒る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし
37
いつも逢ふ電車の中の小男の
稜ある眼
このごろ気になる
38
鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩むものかも
39
何となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下りしに
ゆくところなし
40
空家に入り
煙草のみたることありき
あはれただ一人居たきばかりに
41
何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて
三月にもなれり
42
やはらかに積れる雪に
熱てる頬を埋むるごとき
恋してみたし
43
かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありけり
44
手も足も
室いつぱいに投げ出して
やがて静かに起きかへるかな
45
百年の長き眠りの覚めしごと
?呻してまし
思ふことなしに
46
腕拱みて
このごろ思ふ
大いなる敵目の前に躍り出でよと
47
手が白く
且つ大なりき
非凡なる人といはるる男に会ひしに
48
こころよく
人を讃めてみたくなりにけり
利己の心に倦めるさびしさ
49
雨降れば
わが家の人誰も誰も沈める顔す
雨霽れよかし
50
高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか
51
この日頃
ひそかに胸にやどりたる悔あり
われを笑はしめざり
52
へつらひを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき
53
知らぬ家たたき起して
遁げ来るがおもしろかりし
昔の恋しさ
54
非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ
55
大いなる彼の身体が
憎かりき
その前にゆきて物を言ふ時
56
実務には役に立たざるうた人と
我を見る人に
金借りにけり
57
遠くより笛の音きこゆ
うなだれてある故やらむ
なみだ流るる
58
それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲しくなりたり
59
死ぬことを
持薬をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば
60
路傍に犬ながながと?呻しぬ
われも真似しぬ
うらやましさに
61
真剣になりて竹もて犬を撃つ
小児の顔を
よしと思へり
62
ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし
63
剽軽の性なりし友の死顔の
青き疲れが
いまも目にあり
64
気の変る人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな
65
龍のごとくむなしき空に躍り出でて
消えゆく煙
見れば飽かなく
66
こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後のこの疲れ
67
空寝入生?呻など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため
68
箸止めてふつと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな
69
朝はやく
婚期を過ぎし妹の
恋文めける文を読めりけり
70
しつとりと
水を吸ひたる海綿の
重さに似たる心地おぼゆる
71
死ね死ねと己を怒り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ
72
けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを
73
親と子と
はなればなれの心もて静かに対ふ
気まづきや何ぞ
74
かの船の
かの航海の船客の一人にてありき
死にかねたるは
75
目の前の菓子皿などを
かりかりと噛みてみたくなりぬ
もどかしきかな
76
よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世さびしくもなれ
77
何がなしに
息きれるまで駆け出してみたくなりたり
草原などを
78
あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年も思ひ過ぎたる
79
ことさらに燈火を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと
80
浅草の凌雲閣のいただきに
腕組みし日の
長き日記かな
81
尋常のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔
82
こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る
83
時ありて
子供のやうにたはむれす
恋ある人のなさぬ業かな
84
とかくして家を出づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ
85
つかれたる牛のよだれは
たらたらと
千万年も尽きざるごとし
86
路傍の切石の上に
腕拱みて
空を見上ぐる男ありたり
87
何やらむ
穏かならぬ目付して
鶴嘴を打つ群を見てゐる
88
心より今日は逃げ去れり
病ある獣のごとき
不平逃げ去れり
89
おほどかの心来れり
あるくにも
腹に力のたまるがごとし
90
ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋の夜具のこころよさかな
91
友よさは
乞食の卑しさ厭ふなかれ
餓ゑたる時は我も爾りき
92
新しきインクのにほひ
栓抜けば
餓ゑたる腹に沁むがかなしも
93
かなしきは
喉のかわきをこらへつつ
夜寒の夜具にちぢこまる時
94
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
95
我に似し友の二人よ
一人は死に
一人は牢を出でて今病む
96
あまりある才を抱きて
妻のため
おもひわづらふ友をかなしむ
97
打明けて語りて
何か損をせしごとく思ひて
友とわかれぬ
98
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな
99
人並の才に過ぎざる
わが友の
深き不平もあはれなるかな
100
誰が見てもとりどころなき男来て
威張りて帰りぬ
かなしくもあるか
101
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る
102
何もかも行末の事みゆるごとき
このかなしみは
拭ひあへずも
103
とある日に
酒をのみたくてならぬごとく
今日われ切に金を欲りせり
104
水晶の玉をよろこびもてあそぶ
わがこの心
何の心ぞ
105
事もなく
且つこころよく肥えてゆく
わがこのごろの物足らぬかな
106
大いなる水晶の玉を
ひとつ欲し
それにむかひて物を思はむ
107
うぬ惚るる友に
合槌うちてゐぬ
施与をするごとき心に
108
ある朝のかなしき夢のさめぎはに
鼻に入り来し
味噌を煮る香よ
109
こつこつと空地に石をきざむ音
耳につき来ぬ
家に入るまで
110
何がなしに
頭のなかに崖ありて
日毎に土のくづるるごとし
111
遠方に電話の鈴の鳴るごとく
今日も耳鳴る
かなしき日かな
112
垢じみし袷の襟よ
かなしくも
ふるさとの胡桃焼くるにほひす
113
死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避けて
怖き顔する
114
一隊の兵を見送りて
かなしかり
何ぞ彼等のうれひ無げなる
115
邦人の顔たへがたく卑しげに
目にうつる日なり
家にこもらむ
116
この次の休日に一日寝てみむと
思ひすごしぬ
三年このかた
117
或る時のわれのこころを
焼きたての
麺麭に似たりと思ひけるかな
118
たんたらたらたんたらたらと
雨滴が
痛むあたまにひびくかなしさ
119
ある日のこと
室の障子をはりかへぬ
その日はそれにて心なごみき
120
かうしては居られずと思ひ
立ちにしが
戸外に馬の嘶きしまで
121
気ぬけして廊下に立ちぬ
あららかに扉を推せしに
すぐ開きしかば
122
ぢつとして
黒はた赤のインク吸ひ
堅くかわける海綿を見る
123
誰が見ても
われをなつかしくなるごとき
長き手紙を書きたき夕
124
うすみどり
飲めば身体が水のごと透きとほるてふ
薬はなきか
125
いつも睨むラムプに飽きて
三日ばかり
蝋燭の火にしたしめるかな
126
人間のつかはぬ言葉
ひよつとして
われのみ知れるごとく思ふ日
127
あたらしき心もとめて
名も知らぬ
街など今日もさまよひて来ぬ
128
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
129
何すれば
此処に我ありや
時にかく打驚きて室を眺むる
130
人ありて電車のなかに唾を吐く
それにも
心いたまむとしき
131
夜明けまであそびてくらす場所が欲し
家をおもへば
こころ冷たし
132
人みなが家を持つてふかなしみよ
墓に入るごとく
かへりて眠る
133
何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに
消えむと思ふ
134
人といふ人のこころに
一人づつ囚人がゐて
うめくかなしさ
135
叱られて
わつと泣き出す子供心
その心にもなりてみたきかな
136
盗むてふことさへ悪しと思ひえぬ
心はかなし
かくれ家もなし
137
放たれし女のごときかなしみを
よわき男の
感ずる日なり
138
庭石に
はたと時計をなげうてる
昔のわれの怒りいとしも
139
顔あかめ怒りしことが
あくる日は
さほどにもなきをさびしがるかな
140
いらだてる心よ汝はかなしかり
いざいざ
すこし?呻などせむ
141
女あり
わがいひつけに背かじと心を砕く
見ればかなしも
142
ふがひなき
わが日の本の女等を
秋雨の夜にののしりしかな
143
男とうまれ男と交り
負けてをり
かるがゆゑにや秋が身に沁む
144
わが抱く思想はすべて
金なきに因するごとし
秋の風吹く
145
くだらない小説を書きてよろこべる
男憐れなり
初秋の風
146
秋の風
今日よりは彼のふやけたる男に
口を利かじと思ふ
147
はても見えぬ
真直の街をあゆむごとき
こころを今日は持ちえたるかな
148
何事も思ふことなく
いそがしく
暮らせし一日を忘れじと思ふ
149
何事も金金とわらひ
すこし経て
またも俄かに不平つのり来
150
誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ
151
やとばかり
桂首相に手とられし夢みて覚めぬ
秋の夜の二時
煙
一
152
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも
153
己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし
154
青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか
155
かの旅の汽車の車掌が
ゆくりなくも
我が中学の友なりしかな
156
ほとばしる喞筒の水の
心地よさよ
しばしは若きこころもて見る
157
師も友も知らで責めにき
謎に似る
わが学業のおこたりの因
158
教室の窓より遁げて
ただ一人
かの城址に寝に行きしかな
159
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
160
かなしみといはばいふべき
物の味
我の嘗めしはあまりに早かり
161
晴れし空仰げばいつも
口笛を吹きたくなりて
吹きてあそびき
162
夜寝ても口笛吹きぬ
口笛は
十五の我の歌にしありけり
163
よく叱る師ありき
髯の似たるより山羊と名づけて
口真似もしき
164
われと共に
小鳥に石を投げて遊ぶ
後備大尉の子もありしかな
165
城址の
石に腰掛け
禁制の木の実をひとり味ひしこと
166
その後に我を捨てし友も
あの頃は共に書読み
ともに遊びき
167
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名知らず
168
花散れば
先づ人さきに白の服着て家出づる
我にてありしか
169
今は亡き姉の恋人のおとうとと
なかよくせしを
かなしと思ふ
170
夏休み果ててそのまま
かへり来ぬ
若き英語の教師もありき
171
ストライキ思ひ出でても
今は早や吾が血躍らず
ひそかに淋し
172
盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ
173
神有りと言ひ張る友を
説きふせし
かの路傍の栗の樹の下
174
西風に
内丸大路の桜の葉
かさこそ散るを踏みてあそびき
175
そのかみの愛読の書よ
大方は
今は流行らずなりにけるかな
176
石ひとつ
坂をくだるがごとくにも
我けふの日に到り着きたる
177
愁ひある少年の眼に羨みき
小鳥の飛ぶを
飛びてうたふを
178
解剖せし
蚯蚓のいのちもかなしかり
かの校庭の木柵の下
179
かぎりなき知識の慾に燃ゆる眼を
姉は傷みき
人恋ふるかと
180
蘇峯の書を我に薦めし友早く
校を退きぬ
まづしさのため
181
おどけたる手つきをかしと
我のみはいつも笑ひき
博学の師を
182
自が才に身をあやまちし人のこと
かたりきかせし
師もありしかな
183
そのかみの学校一のなまけ者
今は真面目に
はたらきて居り
184
田舎めく旅の姿を
三日ばかり都に曝し
かへる友かな
185
茨島の松の並木の街道を
われと行きし少女
才をたのみき
186
眼を病みて黒き眼鏡をかけし頃
その頃よ
一人泣くをおぼえし
187
わがこころ
けふもひそかに泣かむとす
友みな己が道をあゆめり
188
先んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老ゆ
189
興来れば
友なみだ垂れ手を揮りて
酔漢のごとくなりて語りき
190
人ごみの中をわけ来る
わが友の
むかしながらの太き杖かな
191
見よげなる年賀の文を書く人と
おもひ過ぎにき
三年ばかりは
192
夢さめてふつと悲しむ
わが眠り
昔のごとく安からぬかな
193
そのむかし秀才の名の高かりし
友牢にあり
秋のかぜ吹く
194
近眼にて
おどけし歌をよみ出でし
茂雄の恋もかなしかりしか
195
わが妻のむかしの願ひ
音楽のことにかかりき
今はうたはず
196
友はみな或日四方に散り行きぬ
その後八年
名挙げしもなし
197
わが恋を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日
198
糸切れし紙鳶のごとくに
若き日の心かろくも
とびさりしかな
二
199
ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
200
やまひある獣のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし
201
ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを
三年聴かざり
202
亡くなれる師がその昔
たまひたる
地理の本など取りいでて見る
203
その昔
小学校の柾屋根に我が投げし鞠
いかにかなりけむ
204
ふるさとの
かの路傍のすて石よ
今年も草に埋もれしらむ
205
わかれをれば妹いとしも
赤き緒の
下駄など欲しとわめく子なりし
206
二日前に山の絵見しが
今朝になりて
にはかに恋しふるさとの山
207
飴売のチャルメラ聴けば
うしなひし
をさなき心ひろへるごとし
208
このごろは
母も時時ふるさとのことを言ひ出づ
秋に入れるなり
209
それとなく
郷里のことなど語り出でて
秋の夜に焼く餅のにほひかな
210
かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
211
田も畑も売りて酒のみ
ほろびゆくふるさと人に
心寄する日
212
あはれかの我の教へし
子等もまた
やがてふるさとを棄てて出づるらむ
213
ふるさとを出で来し子等の
相会ひて
よろこぶにまさるかなしみはなし
214
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
215
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
216
ふるさとの
村医の妻のつつましき櫛巻なども
なつかしきかな
217
かの村の登記所に来て
肺病みて
間もなく死にし男もありき
218
小学の首席を我と争ひし
友のいとなむ
木賃宿かな
219
千代治等も長じて恋し
子を挙げぬ
わが旅にしてなせしごとくに
220
ある年の盆の祭に
衣貸さむ踊れと言ひし
女を思ふ
221
うすのろの兄と
不具の父もてる三太はかなし
夜も書読む
222
我と共に
栗毛の仔馬走らせし
母の無き子の盗癖かな
223
大形の被布の模様の赤き花
今も目に見ゆ
六歳の日の恋
224
その名さへ忘られし頃
飄然とふるさとに来て
咳せし男
225
意地悪の大工の子などもかなしかり
戦に出でしが
生きてかへらず
226
肺を病む
極道地主の総領の
よめとりの日の春の雷かな
227
宗次郎に
おかねが泣きて口説き居り
大根の花白きゆふぐれ
228
小心の役場の書記の
気の狂れし噂に立てる
ふるさとの秋
229
わが従兄
野山の猟に飽きし後
酒のみ家売り病みて死にしかな
230
我ゆきて手をとれば
泣きてしづまりき
酔ひて荒れしそのかみの友
231
酒のめば
刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき
村を遂はれき
232
年ごとに肺病やみの殖えてゆく
村に迎へし
若き医者かな
233
ほたる狩
川にゆかむといふ我を
山路にさそふ人にてありき
234
馬鈴薯のうす紫の花に降る
雨を思へり
都の雨に
235
あはれ我がノスタルジヤは
金のごと
心に照れり清くしみらに
236
友として遊ぶものなき
性悪の巡査の子等も
あはれなりけり
237
閑古鳥
鳴く日となれば起るてふ
友のやまひのいかになりけむ
238
わが思ふこと
おほかたは正しかり
ふるさとのたより着ける朝は
239
今日聞けば
かの幸うすきやもめ人
きたなき恋に身を入るるてふ
240
わがために
なやめる魂をしづめよと
讃美歌うたふ人ありしかな
241
あはれかの男のごときたましひよ
今は何処に
何を思ふや
242
わが庭の白き躑躅を
薄月の夜に
折りゆきしことな忘れそ
243
わが村に
初めてイエス・クリストの道を説きたる
若き女かな
244
霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の虫こそすずろなりけれ
245
汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも
246
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽くなり
心重れり
247
ふるさとに入りて先づ心傷むかな
道広くなり
橋もあたらし
248
見もしらぬ女教師が
そのかみの
わが学舎の窓に立てるかな
249
かの家のかの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに蛙聴きけれ
250
そのかみの神童の名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと
251
ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり
252
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
秋風のこころよさに
253
ふるさとの空遠みかも
高き屋にひとりのぼりて
愁ひて下る
254
皎として玉をあざむく小人も
秋来といふに
物を思へり
255
かなしきは
秋風ぞかし
稀にのみ湧きし涙の繁に流るる
256
青に透く
かなしみの玉に枕して
松のひびきを夜もすがら聴く
257
神寂びし七山の杉
火のごとく染めて日入りぬ
静かなるかな
258
そを読めば
愁ひ知るといふ書焚ける
いにしへ人の心よろしも
259
ものなべてうらはかなげに
暮れゆきぬ
とりあつめたる悲しみの日は
260
水潦
暮れゆく空とくれなゐの紐を浮べぬ
秋雨の後
261
秋立つは水にかも似る
洗はれて
思ひことごと新しくなる
262
愁ひ来て
丘にのぼれば
名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実
263
秋の辻
四すぢの路の三すぢへと吹きゆく風の
あと見えずかも
264
秋の声まづいち早く耳に入る
かかる性持つ
かなしむべかり
265
目になれし山にはあれど
秋来れば
神や住まむとかしこみて見る
266
わが為さむこと世に尽きて
長き日を
かくしもあはれ物を思ふか
267
さららさらと雨落ち来り
庭の面の濡れゆくを見て
涙わすれぬ
268
ふるさとの寺の御廊に
踏みにける
小櫛の蝶を夢にみしかな
269
こころみに
いとけなき日の我となり
物言ひてみむ人あれと思ふ
270
はたはたと黍の葉鳴れる
ふるさとの軒端なつかし
秋風吹けば
271
摩れあへる肩のひまより
はつかにも見きといふさへ
日記に残れり
272
風流男は今も昔も
泡雪の
玉手さし捲く夜にし老ゆらし
273
かりそめに忘れても見まし
石だたみ
春生ふる草に埋るるがごと
274
その昔揺籃に寝て
あまたたび夢にみし人か
切になつかし
275
神無月
岩手の山の
初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ
276
ひでり雨さらさら落ちて
前栽の
萩のすこしく乱れたるかな
277
秋の空廓寥として影もなし
あまりにさびし
烏など飛べ
278
雨後の月
ほどよく濡れし屋根瓦の
そのところどころ光るかなしさ
279
われ饑ゑてある日に
細き尾を掉りて
饑ゑて我を見る犬の面よし
280
いつしかに
泣くといふこと忘れたる
我泣かしむる人のあらじか
281
汪然として
ああ酒のかなしみぞ我に来れる
立ちて舞ひなむ
282
?鳴く
そのかたはらの石に踞し
泣き笑ひしてひとり物言ふ
283
力なく病みし頃より
口すこし開きて眠るが
癖となりにき
284
人ひとり得るに過ぎざる事をもて
大願とせし
若きあやまち
285
物怨ずる
そのやはらかき上目をば
愛づとことさらつれなくせむや
286
かくばかり熱き涙は
初恋の日にもありきと
泣く日またなし
287
長く長く忘れし友に
会ふごとき
よろこびをもて水の音聴く
288
秋の夜の
鋼鉄の色の大空に
火を噴く山もあれなど思ふ
289
岩手山
秋はふもとの三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ
290
父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に
291
秋来れば
恋ふる心のいとまなさよ
夜もい寝がてに雁多く聴く
292
長月も半ばになりぬ
いつまでか
かくも幼く打出でずあらむ
293
思ふてふこと言はぬ人の
おくり来し
忘れな草もいちじろかりし
294
秋の雨に逆反りやすき弓のごと
このごろ
君のしたしまぬかな
295
松の風夜昼ひびきぬ
人訪はぬ山の祠の
石馬の耳に
296
ほのかなる朽木の香り
そがなかの蕈の香りに
秋やや深し
297
時雨降るごとき音して
木伝ひぬ
人によく似し森の猿ども
298
森の奥
遠きひびきす
木のうろに臼ひく侏儒の国にかも来し
299
世のはじめ
まづ森ありて
半神の人そが中に火や守りけむ
300
はてもなく砂うちつづく
戈壁の野に住みたまふ神は
秋の神かも
301
あめつちに
わが悲しみと月光と
あまねき秋の夜となれりけり
302
うらがなしき
夜の物の音洩れ来るを
拾ふがごとくさまよひ行きぬ
303
旅の子の
ふるさとに来て眠るがに
げに静かにも冬の来しかな
忘れがたき人人
一
304
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや
305
たのみつる年の若さを数へみて
指を見つめて
旅がいやになりき
306
三度ほど
汽車の窓よりながめたる町の名なども
したしかりけり
307
函館の床屋の弟子を
おもひ出でぬ
耳剃らせるがこころよかりし
308
わがあとを追ひ来て
知れる人もなき
辺土に住みし母と妻かな
309
船に酔ひてやさしくなれる
いもうとの眼見ゆ
津軽の海を思へば
310
目を閉ぢて
傷心の句を誦してゐし
友の手紙のおどけ悲しも
311
をさなき時
橋の欄干に糞塗りし
話も友はかなしみてしき
312
おそらくは生涯妻をむかへじと
わらひし友よ
今もめとらず
313
あはれかの
眼鏡の縁をさびしげに光らせてゐし
女教師よ
314
友われに飯を与へき
その友に背きし我の
性のかなしさ
315
函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
316
ふるさとの
麦のかをりを懐かしむ
女の眉にこころひかれき
317
あたらしき洋書の紙の
香をかぎて
一途に金を欲しと思ひしが
318
しらなみの寄せて騒げる
函館の大森浜に
思ひしことども
319
朝な朝な
支那の俗歌をうたひ出づる
まくら時計を愛でしかなしみ
320
漂泊の愁ひを叙して成らざりし
草稿の字の
読みがたさかな
321
いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが来しかたのをかしく悲し
322
函館の臥牛の山の半腹の
碑の漢詩も
なかば忘れぬ
323
むやむやと
口の中にてたふとげの事を呟く
乞食もありき
324
とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
山に入りにき
神のごとき友
325
巻煙草口にくはへて
浪あらき
磯の夜霧に立ちし女よ
326
演習のひまにわざわざ
汽車に乗りて
訪ひ来し友とのめる酒かな
327
大川の水の面を見るごとに
郁雨よ
君のなやみを思ふ
328
智慧とその深き慈悲とを
もちあぐみ
為すこともなく友は遊べり
329
こころざし得ぬ人人の
あつまりて酒のむ場所が
我が家なりしかな
330
かなしめば高く笑ひき
酒をもて
悶を解すといふ年上の友
331
若くして
数人の父となりし友
子なきがごとく酔へばうたひき
332
さりげなき高き笑ひが
酒とともに
我が腸に沁みにけらしな
333
?呻噛み
夜汽車の窓に別れたる
別れが今は物足らぬかな
334
雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間の町のともしびの色
335
雨つよく降る夜の汽車の
たえまなく雫流るる
窓硝子かな
336
真夜中の
倶知安駅に下りゆきし
女の鬢の古き痍あと
337
札幌に
かの秋われの持てゆきし
しかして今も持てるかなしみ
338
アカシヤの街?にポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記に残れり
339
しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ
340
わが宿の姉と妹のいさかひに
初夜過ぎゆきし
札幌の雨
341
石狩の美国といへる停車場の
柵に乾してありし
赤き布片かな
342
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
343
泣くがごと首ふるはせて
手の相を見せよといひし
易者もありき
344
いささかの銭借りてゆきし
わが友の
後姿の肩の雪かな
345
世わたりの拙きことを
ひそかにも
誇りとしたる我にやはあらぬ
346
汝が痩せしからだはすべて
謀叛気のかたまりなりと
いはれてしこと
347
かの年のかの新聞の
初雪の記事を書きしは
我なりしかな
348
椅子をもて我を撃たむと身構へし
かの友の酔ひも
今は醒めつらむ
349
負けたるも我にてありき
あらそひの因も我なりしと
今は思へり
350
殴らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな
351
汝三度
この咽喉に剣を擬したりと
彼告別の辞に言へりけり
352
あらそひて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来ぬ
353
あはれかの眉の秀でし少年よ
弟と呼べば
はつかに笑みしが
354
わが妻に着物縫はせし友ありし
冬早く来る
植民地かな
355
平手もて
吹雪にぬれし顔を拭く
友共産を主義とせりけり
356
酒のめば鬼のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ
357
樺太に入りて
新しき宗教を創めむといふ
友なりしかな
358
治まれる世の事無さに
飽きたりといひし頃こそ
かなしかりけれ
359
共同の薬屋開き
儲けむといふ友なりき
詐欺せしといふ
360
あをじろき頬に涙を光らせて
死をば語りき
若き商人
361
子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
362
敵として憎みし友と
やや長く手をば握りき
わかれといふに
363
ゆるぎ出づる汽車の窓より
人先に顔を引きしも
負けざらむため
364
みぞれ降る
石狩の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな
365
わが去れる後の噂を
おもひやる旅出はかなし
死ににゆくごと
366
わかれ来てふと瞬けば
ゆくりなく
つめたきものの頬をつたへり
367
忘れ来し煙草を思ふ
ゆけどゆけど
山なほ遠き雪の野の汽車
368
うす紅く雪に流れて
入日影
曠野の汽車の窓を照せり
369
腹すこし痛み出でしを
しのびつつ
長路の汽車にのむ煙草かな
370
乗合の砲兵士官の
剣の鞘
がちやりと鳴るに思ひやぶれき
371
名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿屋安けし
我が家のごと
372
伴なりしかの代議士の
口あける青き寝顔を
かなしと思ひき
373
今夜こそ思ふ存分泣いてみむと
泊りし宿屋の
茶のぬるさかな
374
水蒸気
列車の窓に花のごと凍てしを染むる
あかつきの色
375
ごおと鳴る凩のあと
乾きたる雪舞ひ立ちて
林を包めり
376
空知川雪に埋れて
鳥も見えず
岸辺の林に人ひとりゐき
377
寂莫を敵とし友とし
雪のなかに
長き一生を送る人もあり
378
いたく汽車に疲れて猶も
きれぎれに思ふは
我のいとしさなりき
379
うたふごと駅の名呼びし
柔和なる
若き駅夫の眼をも忘れず
380
雪のなか
処処に屋根見えて
煙突の煙うすくも空にまよへり
381
遠くより
笛ながながとひびかせて
汽車今とある森林に入る
382
何事も思ふことなく
日一日
汽車のひびきに心まかせぬ
383
さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき
384
しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路の海の冬の月かな
385
こほりたるインクの罎を
火に翳し
涙ながれぬともしびの下
386
顔とこゑ
それのみ昔に変らざる友にも会ひき
国の果にて
387
あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓を啜るごとくに
388
酒のめば悲しみ一時に湧き来るを
寝て夢みぬを
うれしとはせし
389
出しぬけの女の笑ひ
身に沁みき
厨に酒の凍る真夜中
390
わが酔ひに心いためて
うたはざる女ありしが
いかになれるや
391
小奴といひし女の
やはらかき
耳朶なども忘れがたかり
392
よりそひて
深夜の雪の中に立つ
女の右手のあたたかさかな
393
死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉の痍を見せし女かな
394
芸事も顔も
かれより優れたる
女あしざまに我を言へりとか
395
舞へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒の酔ひにたふるるまでも
396
死ぬばかり我が酔ふをまちて
いろいろの
かなしきことを囁きし人
397
いかにせしと言へば
あをじろき酔ひざめの
面に強ひて笑みをつくりき
398
かなしきは
かの白玉のごとくなる腕に残せし
キスの痕かな
399
酔ひてわがうつむく時も
水ほしと眼ひらく時も
呼びし名なりけり
400
火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家に
かよひ慣れにき
401
きしきしと寒さに踏めば板軋む
かへりの廊下の
不意のくちづけ
402
その膝に枕しつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり
403
さらさらと氷の屑が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな
404
死にしとかこのごろ聞きぬ
恋がたき
才あまりある男なりしが
405
十年まへに作りしといふ漢詩を
酔へば唱へき
旅に老いし友
406
吸ふごとに
鼻がぴたりと凍りつく
寒き空気を吸ひたくなりぬ
407
波もなき二月の湾に
白塗の
外国船が低く浮かべり
408
三味線の絃のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜に
409
神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒の山の雪のあけぼの
410
郷里にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味にうたへるゆふべ
411
葡萄色の
古き手帳にのこりたる
かの会合の時と処かな
412
よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり
413
わが室に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日
414
浪淘沙
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな
二
415
いつなりけむ
夢にふと聴きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり
416
頬の寒き
流離の旅の人として
路問ふほどのこと言ひしのみ
417
さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと
418
ひややかに清き大理石に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ
419
世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳の
今も目にあり
420
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
421
真白なるラムプの笠の
瑕のごと
流離の記憶消しがたきかな
422
函館のかの焼跡を去りし夜の
こころ残りを
今も残しつ
423
人がいふ
鬢のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし
424
馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ
425
山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり
426
忘れをれば
ひよつとした事が思ひ出の種にまたなる
忘れかねつも
427
病むと聞き
癒えしと聞きて
四百里のこなたに我はうつつなかりし
428
君に似し姿を街に見る時の
こころ躍りを
あはれと思へ
429
かの声を最一度聴かば
すつきりと
胸や霽れむと今朝も思へる
430
いそがしき生活のなかの
時折のこの物おもひ
誰のためぞも
431
しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ
432
死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか
433
時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ
434
わかれ来て年を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな
435
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
436
長き文
三年のうちに三度来ぬ
我の書きしは四度にかあらむ
手套を脱ぐ時
437
手套を脱ぐ手ふと休む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり
438
いつしかに
情をいつはること知りぬ
髭を立てしもその頃なりけむ
439
朝の湯の
湯槽のふちにうなじ載せ
ゆるく息する物思ひかな
440
夏来れば
うがひ薬の
病ある歯に沁む朝のうれしかりけり
441
つくづくと手をながめつつ
おもひ出でぬ
キスが上手の女なりしが
442
さびしきは
色にしたしまぬ目のゆゑと
赤き花など買はせけるかな
443
新しき本を買ひ来て読む夜半の
そのたのしさも
長くわすれぬ
444
旅七日
かへり来ぬれば
わが窓の赤きインクの染みもなつかし
445
古文書のなかに見いでし
よごれたる
吸取紙をなつかしむかな
446
手にためし雪の融くるが
ここちよく
わが寝飽きたる心には沁む
447
薄れゆく障子の日影
そを見つつ
こころいつしか暗くなりゆく
448
ひやひやと
夜は薬の香のにほふ
医者が住みたるあとの家かな
449
窓硝子
塵と雨とに曇りたる窓硝子にも
かなしみはあり
450
六年ほど日毎日毎にかぶりたる
古き帽子も
棄てられぬかな
451
こころよく
春のねむりをむさぼれる
目にやはらかき庭の草かな
452
赤煉瓦遠くつづける高塀の
むらさきに見えて
春の日ながし
453
春の雪
銀座の裏の三階の煉瓦造に
やはらかに降る
454
よごれたる煉瓦の壁に
降りて融け降りては融くる
春の雪かな
455
目を病める
若き女の寄りかかる
窓にしめやかに春の雨降る
456
あたらしき木のかをりなど
ただよへる
新開町の春の静けさ
457
春の街
見よげに書ける女名の
門札などを読みありくかな
458
そことなく
蜜柑の皮の焼くるごときにほひ残りて
夕となりぬ
459
にぎはしき若き女の集会の
こゑ聴き倦みて
さびしくなりたり
460
何処やらに
若き女の死ぬごとき悩ましさあり
春の霙降る
461
コニヤツクの酔ひのあとなる
やはらかき
このかなしみのすずろなるかな
462
白き皿
拭きては棚に重ねゐる
酒場の隅のかなしき女
463
乾きたる冬の大路の
何処やらむ
石炭酸のにほひひそめり
464
赤赤と入日うつれる
河ばたの酒場の窓の
白き顔かな
465
新しきサラドの皿の
酢のかをり
こころに沁みてかなしき夕
466
空色の罎より
山羊の乳をつぐ
手のふるひなどいとしかりけり
467
すがた見の
息のくもりに消されたる
酔ひのうるみの眸のかなしさ
468
ひとしきり静かになれる
ゆふぐれの
厨にのこるハムのにほひかな
469
ひややかに罎のならべる棚の前
歯せせる女を
かなしとも見き
470
やや長きキスを交して別れ来し
深夜の街の
遠き火事かな
471
病院の窓のゆふべの
ほの白き顔にありたる
淡き見覚え
472
何時なりしか
かの大川の遊船に
舞ひし女をおもひ出にけり
473
用もなき文など長く書きさして
ふと人こひし
街に出てゆく
474
しめらへる煙草を吸へば
おほよその
わが思ふことも軽くしめれり
475
するどくも
夏の来るを感じつつ
雨後の小庭の土の香を嗅ぐ
476
すずしげに飾り立てたる
硝子屋の前にながめし
夏の夜の月
477
君来るといふに夙く起き
白シヤツの
袖のよごれを気にする日かな
478
おちつかぬ我が弟の
このごろの
眼のうるみなどかなしかりけり
479
どこやらに杭打つ音し
大桶をころがす音し
雪ふりいでぬ
480
人気なき夜の事務室に
けたたましく
電話の鈴の鳴りて止みたり
481
目さまして
ややありて耳に入り来る
真夜中すぎの話声かな
482
見てをれば時計とまれり
吸はるるごと
心はまたもさびしさに行く
483
朝朝の
うがひの料の水薬の
罎がつめたき秋となりにけり
484
夷かに麦の青める
丘の根の
小径に赤き小櫛ひろへり
485
裏山の杉生のなかに
斑なる日影這ひ入る
秋のひるすぎ
486
港町
とろろと鳴きて輪を描く鳶を圧せる
潮ぐもりかな
487
小春日の曇硝子にうつりたる
鳥影を見て
すずろに思ふ
488
ひとならび泳げるごとき
家家の高低の軒に
冬の日の舞ふ
489
京橋の滝山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな
490
よく怒る人にてありしわが父の
日ごろ怒らず
怒れと思ふ
491
あさ風が電車のなかに吹き入れし
柳のひと葉
手にとりて見る
492
ゆゑもなく海が見たくて
海に来ぬ
こころ傷みてたへがたき日に
493
たひらなる海につかれて
そむけたる
目をかきみだす赤き帯かな
494
今日逢ひし町の女の
どれもどれも
恋にやぶれて帰るごとき日
495
汽車の旅
とある野中の停車場の
夏草の香のなつかしかりき
496
朝まだき
やつと間に合ひし初秋の旅出の汽車の
堅き麺麭かな
497
かの旅の夜汽車の窓に
おもひたる
我がゆくすゑのかなしかりしかな
498
ふと見れば
とある林の停車場の時計とまれり
雨の夜の汽車
499
わかれ来て
燈火小暗き夜の汽車の窓に弄ぶ
青き林檎よ
500
いつも来る
この酒肆のかなしさよ
ゆふ日赤赤と酒に射し入る
501
白き蓮沼に咲くごとく
かなしみが
酔ひのあひだにはつきりと浮く
502
壁ごしに
若き女の泣くをきく
旅の宿屋の秋の蚊帳かな
503
取りいでし去年の袷の
なつかしきにほひ身に沁む
初秋の朝
504
気にしたる左の膝の痛みなど
いつか癒りて
秋の風吹く
505
売り売りて
手垢きたなきドイツ語の辞書のみ残る
夏の末かな
506
ゆゑもなく憎みし友と
いつしかに親しくなりて
秋の暮れゆく
507
赤紙の表紙手擦れし
国禁の
書を行李の底にさがす日
508
売ることを差し止められし
本の著者に
路にて会へる秋の朝かな
509
今日よりは
我も酒など呷らむと思へる日より
秋の風吹く
510
大海の
その片隅につらなれる島島の上に
秋の風吹く
511
うるみたる目と
目の下の黒子のみ
いつも目につく友の妻かな
512
いつ見ても
毛糸の玉をころがして
韈を編む女なりしが
513
葡萄色の
長椅子の上に眠りたる猫ほの白き
秋のゆふぐれ
514
ほそぼそと
其処ら此処らに虫の鳴く
昼の野に来て読む手紙かな
515
夜おそく戸を繰りをれば
白きもの庭を走れり
犬にやあらむ
516
夜の二時の窓の硝子を
うす紅く
染めて音なき火事の色かな
517
あはれなる恋かなと
ひとり呟きて
夜半の火桶に炭添へにけり
518
真白なるラムプの笠に
手をあてて
寒き夜にする物思ひかな
519
水のごと
身体をひたすかなしみに
葱の香などのまじれる夕
520
時ありて
猫のまねなどして笑ふ
三十路の友のひとり住みかな
521
気弱なる斥候のごとく
おそれつつ
深夜の街を一人散歩す
522
皮膚がみな耳にてありき
しんとして眠れる街の
重き靴音
523
夜おそく停車場に入り
立ち坐り
やがて出でゆきぬ帽なき男
524
気がつけば
しつとりと夜霧下りて居り
ながくも街をさまよへるかな
525
若しあらば煙草恵めと
寄りて来る
あとなし人と深夜に語る
526
曠野より帰るごとくに
帰り来ぬ
東京の夜をひとりあゆみて
527
銀行の窓の下なる
舗石の霜にこぼれし
青インクかな
528
ちよんちよんと
とある小藪に頬白の遊ぶを眺む
雪の野の路
529
十月の朝の空気に
あたらしく
息吸ひそめし赤坊のあり
530
十月の産病院の
しめりたる
長き廊下のゆきかへりかな
531
むらさきの袖垂れて
空を見上げゐる支那人ありき
公園の午後
532
孩児の手ざはりのごとき
思ひあり
公園に来てひとり歩めば
533
ひさしぶりに公園に来て
友に会ひ
堅く手握り口疾に語る
534
公園の木の間に
小鳥あそべるを
ながめてしばし憩ひけるかな
535
晴れし日の公園に来て
あゆみつつ
わがこのごろの衰へを知る
536
思出のかのキスかとも
おどろきぬ
プラタスの葉の散りて触れしを
537
公園の隅のベンチに
二度ばかり見かけし男
このごろ見えず
538
公園のかなしみよ
君の嫁ぎてより
すでに七月来しこともなし
539
公園のとある木蔭の捨椅子に
思ひあまりて
身をば寄せたる
540
忘られぬ顔なりしかな
今日街に
捕吏にひかれて笑める男は
541
マチ擦れば
二尺ばかりの明るさの
中をよぎれる白き蛾のあり
542
目をとぢて
口笛かすかに吹きてみぬ
寝られぬ夜の窓にもたれて
543
わが友は
今日も母なき子を負ひて
かの城址にさまよへるかな
544
夜おそく
つとめ先よりかへり来て
今死にしてふ児を抱けるかな
545
二三こゑ
いまはのきはに微かにも泣きしといふに
なみだ誘はる
546
真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり
547
おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな
548
死にし児の
胸に注射の針を刺す
医者の手もとにあつまる心
549
底知れぬ謎に対ひてあるごとし
死児のひたひに
またも手をやる
550
かなしみの強くいたらぬ
さびしさよ
わが児のからだ冷えてゆけども
551
かなしくも
夜明くるまでは残りゐぬ
息きれし児の肌のぬくもり
ー(をはり)ー
明治四十三年十一月廿八日印刷
明治四十三年十二月 一日発行
著 者 石 川 啄 木
発行者 西 村 寅次郎
印刷者 横 田 五十吉
印刷所 横 田 活版所
発行所 東 雲 堂 書 店