世の中には途法も無い仁もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途法も無い処が即ち新の新たる極意かも知れん。
定めしひねくれた歌を詠んであるぢやらうと思ひながら手当り次第に繰り展げた処が、
高きより飛び下りるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか
此ア面白い、ふン此の刹那の心を常住に持することが出来たら、至極ぢや。面白い処に気が着いたものぢや、面白く言ひまはしたものぢや。
非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ
いや斯ういふ事は俺等の半生にしこたま有つた。此のさびしさを一生覚えずに過す人が、所謂当節の成功家ぢや。
何処やらに沢山の人が争ひて
鬮引くごとし
われも引きたし
何にしろ大混雑のおしあひへしあひで、鬮引の場に入るだけでも一難儀ぢやのに、やつとの思ひに引いたところで大概は空鬮ぢや。
何がなしにさびしくなれば
出てあるく男となりて
三月にもなれり
とある日に
酒をのみたくてならぬごとく
今日われ切に金を欲りせり
怒る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし
腕拱みて
このごろ思ふ
大いなる敵目の前に曜り出でよと
目の前の菓子皿などを
かりかりと噛みてみたくなりぬ
もどかしきかな
鏡とり
能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕達げて死なむと思ふ
よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり
さうぢや、そんなことがある、斯ういふ様な想ひは、俺にもある。二三十年もかけはなれた比の著者と比の読者との間にすら共通の感ぢやから、定めし総ての人にもあるのぢやらう。然る処俺等聞及んだ昔から今までの歌に、斯んな事をすなほに、ずばりと、大胆に率直に詠んだ歌といふものは一向に之れ無い。一寸開けて見てこれぢや、もつと面白い歌が比の集中に満ちて居るに違ひない。そもそも、歌は人の心を種として言葉の手品を使ふものとのみ合点して居た拙者は、斯ういふ種も仕掛も無い淮にも承知の出来る歌も亦当節新発明に為つて居たかと、くれぐれも感心仕る。新派といふものを途法もないものと感ちがひ致居りたる段、全く拙者のひねくれより起りたることと懺悔に及び候也。
犬の年の大水後
藪 野 椋 十
函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君
この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
著 者
明治四十一年夏以後の作一千余首中よ
り五百五十一首を抜きてこの集に収
む。集中五章、感興の来由するところ
相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。
「秋風のこころよさに」は明治四十一
年秋の紀念なり。
我を愛する歌
1
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
2
頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
3
大海にむかひて一人
七八日
泣きなむとすと家を出でにき
4
いたく錆びしピストル出でぬ
砂山の
砂を指もて掘りてありしに
5
ひと夜さに嵐来りて築きたる
この砂山は
何の墓ぞも
6
砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
7
砂山の裾によこたはる流木に
あたり見まはし
物言ひてみる
8
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
9
しつとりと
なみだを吸へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな
10
大という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来れり
11
目さまして猶起き出でぬ児の癖は
かなしき癖ぞ
母よ咎むな
12
ひと塊の土に涎し
泣く母の肖顔つくりぬ
かなしくもあるか
13
燈影なき室に我あり
父と母
壁のなかより杖つきて出づ
14
たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず
15
飄然と家を出でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど
16
ふるさとの父の咳する度に斯く
咳の出づるや
病めばはかなし
17
わが泣くを少女等きかば
病犬の
月に吠ゆるに似たりといふらむ
18
何処やらむかすかに虫のなくごとき
こころ細さを
今日もおぼゆる
19
いと暗き
穴に心を吸はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る
20
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ
21
こみ合へる電車の隅に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ
22
浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心
23
愛犬の耳斬りてみぬ
あはれこれも
物に倦みたる心にかあらむ
24
鏡とり
能ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽きし時
25
なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗へば心戯けたくなれり
26
呆れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗を箸もて敲きてありき
27
草に臥て
おもふことなし
わが額に糞して鳥は空に遊べり
28
わが髭の
下向く癖がいきどほろし
このごろ憎き男に似たれば
29
森の奥より銃声聞ゆ
あはれあはれ
自ら死ぬる音のよろしさ
30
大木の幹に耳あて
小半日
堅き皮をばむしりてありき
31
「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止せ止せ問答
32
まれにある
この平なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴く
33
ふと深き怖れを覚え
ぢつとして
やがて静かに臍をまさぐる
34
高山のいただきに登り
なにがなしに帽子をふりて
下り来しかな
35
何処やらに沢山の人があらそひて
鬮引くごとし
われも引きたし
36
怒る時
かならずひとつ鉢を割り
九百九十九割りて死なまし
37
いつも逢ふ電車の中の小男の
稜ある眼
このごろ気になる
38
鏡屋の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩むものかも
39
何となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下りしに
ゆくところなし
40
空家に入り
煙草のみたることありき
あはれただ一人居たきばかりに
41
何がなしに
さびしくなれば出てあるく男となりて
三月にもなれり
42
やはらかに積れる雪に
熱てる頬を埋むるごとき
恋してみたし
43
かなしきは
飽くなき利己の一念を
持てあましたる男にありけり
44
手も足も
室いつぱいに投げ出して
やがて静かに起きかへるかな
45
百年の長き眠りの覚めしごと
?呻してまし
思ふことなしに
46
腕拱みて
このごろ思ふ
大いなる敵目の前に躍り出でよと
47
手が白く
且つ大なりき
非凡なる人といはるる男に会ひしに
48
こころよく
人を讃めてみたくなりにけり
利己の心に倦めるさびしさ
49
雨降れば
わが家の人誰も誰も沈める顔す
雨霽れよかし
50
高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか
51
この日頃
ひそかに胸にやどりたる悔あり
われを笑はしめざり
52
へつらひを聞けば
腹立つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき
53
知らぬ家たたき起して
遁げ来るがおもしろかりし
昔の恋しさ
54
非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ
55
大いなる彼の身体が
憎かりき
その前にゆきて物を言ふ時
56
実務には役に立たざるうた人と
我を見る人に
金借りにけり
57
遠くより笛の音きこゆ
うなだれてある故やらむ
なみだ流るる
58
それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲しくなりたり
59
死ぬことを
持薬をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば
60
路傍に犬ながながと?呻しぬ
われも真似しぬ
うらやましさに
61
真剣になりて竹もて犬を撃つ
小児の顔を
よしと思へり
62
ダイナモの
重き唸りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし
63
剽軽の性なりし友の死顔の
青き疲れが
いまも目にあり
64
気の変る人に仕へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな
65
龍のごとくむなしき空に躍り出でて
消えゆく煙
見れば飽かなく
66
こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後のこの疲れ
67
空寝入生?呻など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため
68
箸止めてふつと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな
69
朝はやく
婚期を過ぎし妹の
恋文めける文を読めりけり
70
しつとりと
水を吸ひたる海綿の
重さに似たる心地おぼゆる
71
死ね死ねと己を怒り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ
72
けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを
73
親と子と
はなればなれの心もて静かに対ふ
気まづきや何ぞ
74
かの船の
かの航海の船客の一人にてありき
死にかねたるは
75
目の前の菓子皿などを
かりかりと噛みてみたくなりぬ
もどかしきかな
76
よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世さびしくもなれ
77
何がなしに
息きれるまで駆け出してみたくなりたり
草原などを
78
あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年も思おもひ過すぎたる
79
ことさらに燈火ともしびを消けして
まぢまぢと思おもひてゐしは
わけもなきこと
80
浅草あさくさの凌雲閣りよううんかくのいただきに
腕組うでくみし日ひの
長ながき日記にきかな
81
尋常じんじやうのおどけならむや
ナイフ持もち死しぬまねをする
その顔かほその顔かほ
82
こそこその話はなしがやがて高たかくなり
ピストル鳴なりて
人生じんせい終をはる
83
時ときありて
子供こどものやうにたはむれす
恋こひある人ひとのなさぬ業わざかな
84
とかくして家いへを出いづれば
日光につくわうのあたたかさあり
息いきふかく吸すふ
85
つかれたる牛うしのよだれは
たらたらと
千万せんまん年ねんも尽つきざるごとし
86
路傍みちばたの切石きりいしの上うへに
腕うで拱くみて
空そらを見上みあぐる男をとこありたり
87
何なにやらむ
穏おだやかならぬ目付めつきして
鶴嘴つるはしを打うつ群むれを見みてゐる
88
心こころより今日けふは逃にげ去されり
病やまひある獣けもののごとき
不平ふへい逃にげ去されり
89
おほどかの心こころ来きたれり
あるくにも
腹はらに力ちからのたまるがごとし
90
ただひとり泣なかまほしさに
来きて寝ねたる
宿屋やどやの夜具やぐのこころよさかな
91
友ともよさは
乞食こじきの卑いやしさ厭いとふなかれ
餓うゑたる時ときは我われも爾しかりき
92
新あたらしきインクのにほひ
栓せん抜ぬけば
餓うゑたる腹はらに沁しむがかなしも
93
かなしきは
喉のどのかわきをこらへつつ
夜寒よざむの夜具やぐにちぢこまる時とき
94
一度いちどでも我われに頭あたまを下さげさせし
人ひとみな死しねと
いのりてしこと
95
我われに似にし友ともの二人ふたりよ
一人ひとりは死しに
一人ひとりは牢らうを出いでて今いま病やむ
96
あまりある才さいを抱いだきて
妻つまのため
おもひわづらふ友ともをかなしむ
97
打明うちあけて語かたりて
何なにか損そんをせしごとく思おもひて
友ともとわかれぬ
98
どんよりと
くもれる空そらを見みてゐしに
人ひとを殺ころしたくなりにけるかな
99
人並ひとなみの才さいに過すぎざる
わが友ともの
深ふかき不平ふへいもあはれなるかな
100
誰たれが見みてもとりどころなき男をとこ来きて
威張ゐばりて帰かへりぬ
かなしくもあるか
101
はたらけど
はたらけど猶なほわが生活くらし楽らくにならざり
ぢつと手てを見みる
102
何なにもかも行末ゆくすゑの事ことみゆるごとき
このかなしみは
拭ぬぐひあへずも
103
とある日ひに
酒さけをのみたくてならぬごとく
今日けふわれ切せちに金かねを欲ほりせり
104
水晶すゐしやうの玉たまをよろこびもてあそぶ
わがこの心こころ
何なにの心こころぞ
105
事こともなく
且かつこころよく肥こえてゆく
わがこのごろの物もの足たらぬかな
106
大おおいなる水晶すゐしやうの玉たまを
ひとつ欲ほし
それにむかひて物ものを思おもはむ
107
うぬ惚ぼるる友ともに
合槌あひづちうちてゐぬ
施与ほどこしをするごとき心こころに
108
ある朝あさのかなしき夢ゆめのさめぎはに
鼻はなに入いり来きし
味噌みそを煮にる香かよ
109
こつこつと空地あきちに石いしをきざむ音おと
耳みみにつき来きぬ
家いへに入いるまで
110
何なにがなしに
頭あたまのなかに崖がけありて
日毎ひごとに土つちのくづるるごとし
111
遠方ゑんぱうに電話でんわの鈴りんの鳴なるごとく
今日けふも耳みみ鳴なる
かなしき日ひかな
112
垢あかじみし袷あはせの襟えりよ
かなしくも
ふるさとの胡桃くるみ焼やくるにほひす
113
死しにたくてならぬ時ときあり
はばかりに人目ひとめを避さけて
怖こはき顔かほする
114
一いつ隊たいの兵へいを見送みおくりて
かなしかり
何なにぞ彼等かれらのうれひ無なげなる
115
邦人くにびとの顔かほたへがたく卑いやしげに
目めにうつる日ひなり
家いへにこもらむ
116
この次つぎの休日やすみに一日いちにち寝ねてみむと
思おもひすごしぬ
三年みとせこのかた
117
或ある時ときのわれのこころを
焼やきたての
麺麭ぱんに似にたりと思おもひけるかな
118
たんたらたらたんたらたらと
雨滴あまだれが
痛いたむあたまにひびくかなしさ
119
ある日ひのこと
室へやの障子しやうじをはりかへぬ
その日ひはそれにて心こころなごみき
120
かうしては居をられずと思おもひ
立たちにしが
戸外おもてに馬うまの嘶いななきしまで
121
気きぬけして廊下らうかに立たちぬ
あららかに扉ドアを推おせしに
すぐ開あきしかば
122
ぢつとして
黒くろはた赤あかのインク吸すひ
堅かたくかわける海綿かいめんを見みる
123
誰たれが見みても
われをなつかしくなるごとき
長ながき手紙てがみを書かきたき夕ゆふべ
124
うすみどり
飲のめば身体からだが水みづのごと透すきとほるてふ
薬くすりはなきか
125
いつも睨にらむラムプに飽あきて
三日みかばかり
蝋燭らふそくの火ひにしたしめるかな
126
人間にんげんのつかはぬ言葉ことば
ひよつとして
われのみ知しれるごとく思おもふ日ひ
127
あたらしき心こころもとめて
名なも知しらぬ
街まちなど今日けふもさまよひて来きぬ
128
友ともがみなわれよりえらく見みゆる日ひよ
花はなを買かひ来きて
妻つまとしたしむ
129
何なにすれば
此処ここに我われありや
時ときにかく打驚うちおどろきて室へやを眺ながむる
130
人ひとありて電車でんしやのなかに唾つばを吐はく
それにも
心こころいたまむとしき
131
夜明よあけまであそびてくらす場所ばしよが欲ほし
家いへをおもへば
こころ冷つめたし
132
人ひとみなが家いへを持もつてふかなしみよ
墓はかに入いるごとく
かへりて眠ねむる
133
何なにかひとつ不思議ふしぎを示しめし
人ひとみなのおどろくひまに
消きえむと思おもふ
134
人ひとといふ人ひとのこころに
一人ひとりづつ囚人しうじんがゐて
うめくかなしさ
135
叱しかられて
わつと泣なき出だす子供心こどもごころ
その心こころにもなりてみたきかな
136
盗ぬすむてふことさへ悪あしと思おもひえぬ
心こころはかなし
かくれ家がもなし
137
放はなたれし女をんなのごときかなしみを
よわき男をとこの
感かんずる日ひなり
138
庭石にはいしに
はたと時計とけいをなげうてる
昔むかしのわれの怒いかりいとしも
139
顔かほあかめ怒いかりしことが
あくる日ひは
さほどにもなきをさびしがるかな
140
いらだてる心こころよ汝なれはかなしかり
いざいざ
すこし?呻あくびなどせむ
141
女をんなあり
わがいひつけに背そむかじと心こころを砕くだく
見みればかなしも
142
ふがひなき
わが日ひの本もとの女等をんならを
秋雨あきさめの夜よにののしりしかな
143
男をとことうまれ男をとこと交まじり
負まけてをり
かるがゆゑにや秋あきが身みに沁しむ
144
わが抱いだく思想しさうはすべて
金かねなきに因いんするごとし
秋あきの風かぜ吹ふく
145
くだらない小説せうせつを書かきてよろこべる
男をとこ憐あはれなり
初秋はつあきの風かぜ
146
秋あきの風かぜ
今日けふよりは彼かのふやけたる男をとこに
口くちを利きかじと思おもふ
147
はても見みえぬ
真直ますぐの街まちをあゆむごとき
こころを今日けふは持もちえたるかな
148
何事なにごとも思おもふことなく
いそがしく
暮くらせし一日ひとひを忘わすれじと思おもふ
149
何事なにごとも金金かねかねとわらひ
すこし経へて
またも俄にはかに不平ふへいつのり来く
150
誰たそ我われに
ピストルにても撃うてよかし
伊藤いとうのごとく死しにて見みせなむ
151
やとばかり
桂かつら首相しゆしやうに手てとられし夢ゆめみて覚さめぬ
秋あきの夜よの二時にじ
煙
一
152
病やまひのごと
思郷しきやうのこころ湧わく日ひなり
目めにあをぞらの煙けむりかなしも
153
己おのが名なをほのかに呼よびて
涙なみだせし
十四じふしの春はるにかへる術すべなし
154
青空あをぞらに消きえゆく煙けむり
さびしくも消きえゆく煙けむり
われにし似にるか
155
かの旅たびの汽車きしやの車掌しやしやうが
ゆくりなくも
我わが中学ちゆうがくの友ともなりしかな
156
ほとばしる喞筒ポンプの水みづの
心地ここちよさよ
しばしは若わかきこころもて見みる
157
師しも友ともも知しらで責せめにき
謎なぞに似にる
わが学業がくぎやうのおこたりの因もと
158
教室けうしつの窓まどより遁にげて
ただ一人ひとり
かの城址しろあとに寝ねに行ゆきしかな
159
不来方こずかたのお城しろの草くさに寝ねころびて
空そらに吸すはれし
十五じふごの心こころ
160
かなしみといはばいふべき
物ものの味あぢ
我われの嘗なめしはあまりに早はやかり
161
晴はれし空そら仰あふげばいつも
口笛くちぶえを吹ふきたくなりて
吹ふきてあそびき
162
夜よる寝ねても口笛くちぶえ吹ふきぬ
口笛くちぶえは
十じふ五ごの我われの歌うたにしありけり
163
よく叱しかる師しありき
髯ひげの似にたるより山羊やぎと名なづけて
口真似くちまねもしき
164
われと共ともに
小鳥ことりに石いしを投なげて遊あそぶ
後備大尉こうびたいゐの子こもありしかな
165
城址しろあとの
石いしに腰掛こしかけ
禁制きんせいの木この実みをひとり味あぢはひしこと
166
その後のちに我われを捨すてし友ともも
あの頃ころは共ともに書読ふみよみ
ともに遊あそびき
167
学校がくかうの図書庫としよぐらの裏うらの秋あきの草くさ
黄きなる花はな咲さきし
今いまも名な知しらず
168
花はな散ちれば
先まづ人ひとさきに白しろの服ふく着きて家いへ出いづる
我われにてありしか
169
今いまは亡なき姉あねの恋人こひびとのおとうとと
なかよくせしを
かなしと思おもふ
170
夏休なつやすみ果はててそのまま
かへり来こぬ
若わかき英語えいごの教師けうしもありき
171
ストライキ思おもひ出いでても
今いまは早はや吾わが血ち躍をどらず
ひそかに淋さびし
172
盛岡もりをかの中学校ちゆうがくかうの
露台バルコンの
欄干てすりに最一度もいちど我われを倚よらしめ
173
神かみ有ありと言いひ張はる友ともを
説ときふせし
かの路傍みちばたの栗くりの樹きの下もと
174
西風にしかぜに
内丸大路うちまるおほぢの桜さくらの葉は
かさこそ散ちるを踏ふみてあそびき
175
そのかみの愛読あいどくの書しよよ
大方おほかたは
今いまは流行はやらずなりにけるかな
176
石いしひとつ
坂さかをくだるがごとくにも
我われけふの日ひに到いたり着つきたる
177
愁うれひある少年せうねんの眼めに羨うらやみき
小鳥ことりの飛とぶを
飛とびてうたふを
178
解剖ふわけせし
蚯蚓みみずのいのちもかなしかり
かの校庭かうていの木柵もくさくの下もと
179
かぎりなき知識ちしきの慾よくに燃もゆる眼めを
姉あねは傷いたみき
人ひと恋こふるかと
180
蘇峯そほうの書しよを我われに薦すすめし友とも早はやく
校かうを退しりぞきぬ
まづしさのため
181
おどけたる手てつきをかしと
我われのみはいつも笑わらひき
博学はくがくの師しを
182
自しが才さいに身みをあやまちし人ひとのこと
かたりきかせし
師しもありしかな
183
そのかみの学校がくかう一いちのなまけ者もの
今いまは真面目まじめに
はたらきて居をり
184
田舎ゐなかめく旅たびの姿すがたを
三日みかばかり都みやこに曝さらし
かへる友ともかな
185
茨島ばらじまの松まつの並木なみきの街道かいだうを
われと行いきし少女をとめ
才さいをたのみき
186
眼めを病やみて黒くろき眼鏡めがねをかけし頃ころ
その頃ころよ
一人ひとり泣なくをおぼえし
187
わがこころ
けふもひそかに泣なかむとす
友ともみな己おのが道みちをあゆめり
188
先さきんじて恋こひのあまさと
かなしさを知しりし我われなり
先さきんじて老おゆ
189
興きよう来きたれば
友ともなみだ垂たれ手てを揮ふりて
酔漢ゑひどれのごとくなりて語かたりき
190
人ひとごみの中なかをわけ来くる
わが友ともの
むかしながらの太ふとき杖つゑかな
191
見みよげなる年賀ねんがの文ふみを書かく人ひとと
おもひ過すぎにき
三年みとせばかりは
192
夢ゆめさめてふつと悲かなしむ
わが眠ねむり
昔むかしのごとく安やすからぬかな
193
そのむかし秀才しうさいの名なの高たかかりし
友とも牢らうにあり
秋あきのかぜ吹ふく
194
近眼ちかめにて
おどけし歌うたをよみ出いでし
茂雄しげをの恋こひもかなしかりしか
195
わが妻つまのむかしの願ねがひ
音楽おんがくのことにかかりき
今いまはうたはず
196
友ともはみな或日あるひ四方しはうに散ちり行ゆきぬ
その後のち八年やとせ
名な挙あげしもなし
197
わが恋こひを
はじめて友ともにうち明あけし夜よるのことなど
思おもひ出いづる日ひ
198
糸いと切きれし紙鳶たこのごとくに
若わかき日ひの心こころかろくも
とびさりしかな
二
199
ふるさとの訛なまりなつかし
停車場ていしやばの人ひとごみの中なかに
そを聴ききにゆく
200
やまひある獣けもののごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞きけばおとなし
201
ふと思おもふ
ふるさとにゐて日毎ひごと聴ききし雀すずめの鳴なくを
三年みとせ聴きかざり
202
亡なくなれる師しがその昔むかし
たまひたる
地理ちりの本ほんなど取とりいでて見みる
203
その昔むかし
小学校せうがくかうの柾屋根まさやねに我わが投なげし鞠まり
いかにかなりけむ
204
ふるさとの
かの路傍みちばたのすて石いしよ
今年ことしも草くさに埋うづもれしらむ
205
わかれをれば妹いもといとしも
赤あかき緒をの
下駄げたなど欲ほしとわめく子こなりし
206
二日ふつか前まえに山やまの絵ゑ見みしが
今朝けさになりて
にはかに恋こひしふるさとの山やま
207
飴売あめうりのチャルメラ聴きけば
うしなひし
をさなき心こころひろへるごとし
208
このごろは
母ははも時時ときどきふるさとのことを言いひ出いづ
秋あきに入いれるなり
209
それとなく
郷里くにのことなど語かたり出いでて
秋あきの夜よに焼やく餅もちのにほひかな
210
かにかくに渋民村しぶたみむらは恋こひしかり
おもひでの山やま
おもひでの川かは
211
田たも畑はたも売うりて酒さけのみ
ほろびゆくふるさと人びとに
心こころ寄よする日ひ
212
あはれかの我われの教をしへし
子等こらもまた
やがてふるさとを棄すてて出いづるらむ
213
ふるさとを出いで来きし子等こらの
相会あひあひて
よろこぶにまさるかなしみはなし
214
石いしをもて追おはるるごとく
ふるさとを出いでしかなしみ
消きゆる時ときなし
215
やはらかに柳やなぎあをめる
北上きたかみの岸辺きしべ目めに見みゆ
泣なけとごとくに
216
ふるさとの
村医そんいの妻つまのつつましき櫛巻くしまきなども
なつかしきかな
217
かの村むらの登記所とうきしよに来きて
肺はい病やみて
間まもなく死しにし男をとこもありき
218
小学せうがくの首席しゆせきを我われと争あらそひし
友とものいとなむ
木賃宿きちんやどかな
219
千代治等ちよぢらも長ちやうじて恋こひし
子こを挙あげぬ
わが旅たびにしてなせしごとくに
220
ある年としの盆ぼんの祭まつりに
衣きぬ貸かさむ踊おどれと言いひし
女をんなを思おもふ
221
うすのろの兄あにと
不具かたはの父ちちもてる三太さんたはかなし
夜よるも書ふみ読よむ
222
我われと共ともに
栗毛くりげの仔馬こうまこうま走はしらせし
母ははの無なき子この盗癖ぬすみぐせかな
223
大形おほがたの被布ひふの模様もやうの赤あかき花はな
今いまも目めに見みゆ
六歳むつの日ひの恋こひ
224
その名なさへ忘わすられし頃ころ
飄然へうぜんとふるさとに来きて
咳せきせし男をとこ
225
意地悪いぢわるの大工だいくの子こなどもかなしかり
戦いくさに出いでしが
生いきてかへらず
226
肺はいを病やむ
極道地主ごくだうぢぬしの総領そうりやうの
よめとりの日ひの春はるの雷らいかな
227
宗次郎そうじろに
おかねが泣なきて口説くどき居をり
大根だいこんの花はな白しろきゆふぐれ
228
小心せうしんの役場やくばの書記しよきの
気きの狂ふれし噂うはさに立たてる
ふるさとの秋あき
229
わが従兄いとこ
野山のやまの猟かりに飽あきし後のち
酒さけのみ家いへ売うり病やみて死しにしかな
230
我われゆきて手てをとれば
泣なきてしづまりき
酔ゑひて荒あばれしそのかみの友とも
231
酒さけのめば
刀かたなをぬきて妻つまを逐おふ教師けうしもありき
村むらを遂おはれき
232
年としごとに肺病はいびやうやみの殖ふえてゆく
村むらに迎むかへし
若わかき医者いしやかな
233
ほたる狩がり
川かはにゆかむといふ我われを
山路やまぢにさそふ人ひとにてありき
234
馬鈴薯ばれいしよのうす紫むらさきの花はなに降ふる
雨あめを思おもへり
都みやこの雨あめに
235
あはれ我わがノスタルジヤは
金きんのごと
心こころに照てれり清きよくしみらに
236
友ともとして遊あそぶものなき
性悪しやうわるの巡査じゆんさの子等こらも
あはれなりけり
237
閑古鳥かんこどり
鳴なく日ひとなれば起おこるてふ
友とものやまひのいかになりけむ
238
わが思おもふこと
おほかたは正ただしかり
ふるさとのたより着つける朝あしたは
239
今日けふ聞きけば
かの幸さちうすきやもめ人びと
きたなき恋こひに身みを入いるるてふ
240
わがために
なやめる魂たまをしづめよと
讃美歌さんびかうたふ人ひとありしかな
241
あはれかの男をとこのごときたましひよ
今いまは何処いづこに
何なにを思おもふや
242
わが庭にはの白しろき躑躅つつじを
薄月うすづきの夜よに
折をりゆきしことな忘わすれそ
243
わが村むらに
初はじめてイエス・クリストの道みちを説ときたる
若わかき女をんなかな
244
霧きりふかき好摩かうまの原はらの
停車場ていしやばの
朝あさの虫むしこそすずろなりけれ
245
汽車きしやの窓まど
はるかに北きたにふるさとの山やま見みえ来くれば
襟えりを正ただすも
246
ふるさとの土つちをわが踏ふめば
何なにがなしに足あし軽かろくなり
心こころ重おもれり
247
ふるさとに入いりて先まづ心こころ傷いたむかな
道みち広ひろくなり
橋はしもあたらし
248
見みもしらぬ女教師をんなけうしが
そのかみの
わが学舎まなびやの窓まどに立たてるかな
249
かの家いへのかの窓まどにこそ
春はるの夜よを
秀子ひでことともに蛙かはづ聴ききけれ
250
そのかみの神童しんどうの名なの
かなしさよ
ふるさとに来きて泣なくはそのこと
251
ふるさとの停車場路ていしやばみちの
川かわばたの
胡桃くるみの下したに小石こいし拾ひろへり
252
ふるさとの山やまに向むかひて
言いふことなし
ふるさとの山やまはありがたきかな
秋風のこころよさに
253
ふるさとの空そら遠とほみかも
高たかき屋やにひとりのぼりて
愁うれひて下くだる
254
皎かうとして玉たまをあざむく小人せうじんも
秋あき来くといふに
物ものを思おもへり
255
かなしきは
秋風あきかぜぞかし
稀まれにのみ湧わきし涙なみだの繁しじに流ながるる
256
青あおに透すく
かなしみの玉たまに枕まくらして
松まつのひびきを夜よもすがら聴きく
257
神かみ寂さびし七山ななやまの杉すぎ
火ひのごとく染そめて日ひ入いりぬ
静しづかなるかな
258
そを読よめば
愁うれひ知しるといふ書ふみ焚たける
いにしへ人びとの心こころよろしも
259
ものなべてうらはかなげに
暮くれゆきぬ
とりあつめたる悲かなしみの日ひは
260
水潦みづたまり
暮くれゆく空そらとくれなゐの紐ひもを浮うかべぬ
秋雨あきさめの後のち
261
秋立あきたつは水みづにかも似にる
洗あらはれて
思おもひことごと新あたらしくなる
262
愁うれひ来きて
丘おかにのぼれば
名なも知しらぬ鳥とり啄ついばめり赤あかき茨ばらの実み
263
秋あきの辻つじ
四よすぢの路みちの三みすぢへと吹ふきゆく風かぜの
あと見みえずかも
264
秋あきの声こゑまづいち早はやく耳みみに入いる
かかる性さが持もつ
かなしむべかり
265
目めになれし山やまにはあれど
秋あき来くれば
神かみや住すまむとかしこみて見みる
266
わが為なさむこと世よに尽つきて
長ながき日ひを
かくしもあはれ物ものを思おもふか
267
さららさらと雨あめ落おち来きたり
庭にはの面もの濡ぬれゆくを見みて
涙なみだわすれぬ
268
ふるさとの寺てらの御廊みらうに
踏ふみにける
小櫛をぐしの蝶てふを夢ゆめにみしかな
269
こころみに
いとけなき日ひの我われとなり
物もの言いひてみむ人ひとあれと思おもふ
270
はたはたと黍きびの葉は鳴なれる
ふるさとの軒端のきばなつかし
秋風あきかぜ吹ふけば
271
摩すれあへる肩かたのひまより
はつかにも見みきといふさへ
日記にきに残のこれり
272
風流男みやびをは今いまも昔むかしも
泡雪あわゆきの
玉手たまでさし捲まく夜よにし老おゆらし
273
かりそめに忘わすれても見みまし
石いしだたみ
春はる生おふる草くさに埋うもるるがごと
274
その昔むかし揺籃ゆりかごに寝ねて
あまたたび夢ゆめにみし人ひとか
切せちになつかし
275
神無月かみなづき
岩手いはての山やまの
初雪はつゆきの眉まゆにせまりし朝あさを思おもひぬ
276
ひでり雨あめさらさら落おちて
前栽せんざいの
萩はぎのすこしく乱みだれたるかな
277
秋あきの空そら廓寥くわくれうとして影かげもなし
あまりにさびし
烏からすなど飛とべ
278
雨後うごの月つき
ほどよく濡ぬれし屋根瓦やねがはらの
そのところどころ光ひかるかなしさ
279
われ饑うゑてある日ひに
細ほそき尾をを掉ふりて
饑うゑて我われを見みる犬いぬの面つらよし
280
いつしかに
泣なくといふこと忘わすれたる
我われ泣なかしむる人ひとのあらじか
281
汪然わうぜんとして
ああ酒さけのかなしみぞ我われに来きたれる
立たちて舞まひなむ
282
?いとど鳴なく
そのかたはらの石いしに踞きよし
泣なき笑わらひしてひとり物もの言いふ
283
力ちからなく病やみし頃ころより
口くちすこし開あきて眠ねむるが
癖くせとなりにき
284
人ひとひとり得うるに過すぎざる事ことをもて
大願たいぐわんとせし
若わかきあやまち
285
物もの怨ゑずる
そのやはらかき上目うはめをば
愛めづとことさらつれなくせむや
286
かくばかり熱あつき涙なみだは
初恋はつこいの日ひにもありきと
泣なく日ひまたなし
287
長ながく長ながく忘わすれし友ともに
会あふごとき
よろこびをもて水みづの音おと聴きく
288
秋あきの夜よの
鋼鉄はがねの色いろの大空おほそらに
火ひを噴はく山やまもあれなど思おもふ
289
岩手山いはてやま
秋あきはふもとの三方さんぱうの
野のに満みつる虫むしを何なにと聴きくらむ
290
父ちちのごと秋あきはいかめし
母ははのごと秋あきはなつかし
家いへ持もたぬ児こに
291
秋あき来くれば
恋こふる心こころのいとまなさよ
夜よもい寝ねがてに雁かり多おほく聴きく
292
長月ながつきも半なかばになりぬ
いつまでか
かくも幼おさなく打出うちいでずあらむ
293
思おもふてふこと言いはぬ人ひとの
おくり来きし
忘わすれな草ぐさもいちじろかりし
294
秋あきの雨あめに逆反さかぞりやすき弓ゆみのごと
このごろ
君きみのしたしまぬかな
295
松まつの風かぜ夜昼よひるひびきぬ
人ひと訪とはぬ山やまの祠ほこらの
石馬いしうまの耳みみに
296
ほのかなる朽木くちきの香かをり
そがなかの蕈たけの香かをりに
秋あきやや深し
297
時雨しぐれ降ふるごとき音おとして
木伝こづたひぬ
人ひとによく似にし森もりの猿さるども
298
森もりの奥おく
遠とほきひびきす
木きのうろに臼うすひく侏儒しゆじゆの国くににかも来きし
299
世よのはじめ
まづ森もりありて
半神はんしんの人ひとそが中なかに火ひや守まもりけむ
300
はてもなく砂すなうちつづく
戈壁ゴビの野のに住すみたまふ神かみは
秋あきの神かみかも
301
あめつちに
わが悲かなしみと月光げつくわうと
あまねき秋あきの夜よとなれりけり
302
うらがなしき
夜よるの物ものの音ね洩もれ来くるを
拾ひろふがごとくさまよひ行ゆきぬ
303
旅たびの子この
ふるさとに来きて眠ねむるがに
げに静しづかにも冬ふゆの来きしかな
忘れがたき人人
一
304
潮しほかをる北きたの浜辺はまべの
砂山すなやまのかの浜薔薇はまなすよ
今年ことしも咲さけるや
305
たのみつる年としの若わかさを数かぞへみて
指ゆびを見みつめて
旅たびがいやになりき
306
三度みたびほど
汽車きしやの窓まどよりながめたる町まちの名ななども
したしかりけり
307
函館はこだての床屋とこやの弟子でしを
おもひ出いでぬ
耳みみ剃そらせるがこころよかりし
308
わがあとを追おひ来きて
知しれる人ひともなき
辺土へんどに住すみし母ははと妻つまかな
309
船ふねに酔ゑひてやさしくなれる
いもうとの眼め見みゆ
津軽つがるの海うみを思おもへば
310
目めを閉とぢて
傷心しやうしんの句くを誦ずしてゐし
友ともの手紙てがみのおどけ悲かなしも
311
をさなき時とき
橋はしの欄干らんかんに糞くそ塗ぬりし
話はなしも友ともはかなしみてしき
312
おそらくは生涯しやうがい妻つまをむかへじと
わらひし友ともよ
今いまもめとらず
313
あはれかの
眼鏡めがねの縁ふちをさびしげに光ひからせてゐし
女をんな教師けうしよ
314
友ともわれに飯めしを与あたへき
その友ともに背そむきし我われの
性さがのかなしさ
315
函館はこだての青柳町あをやぎちやうこそかなしけれ
友ともの恋歌こひうた
矢やぐるまの花はな
316
ふるさとの
麦むぎのかをりを懐なつかしむ
女をんなの眉まゆにこころひかれき
317
あたらしき洋書やうしよの紙かみの
香かをかぎて
一途いちづに金かねを欲ほしと思おもひしが
318
しらなみの寄よせて騒さわげる
函館はこだての大森浜おほもりはまに
思おもひしことども
319
朝あさな朝あさな
支那しなの俗歌ぞくかをうたひ出いづる
まくら時計どけいを愛めでしかなしみ
320
漂泊へうはくの愁うれひを叙じよして成ならざりし
草稿さうかうの字じの
読よみがたさかな
321
いくたびか死しなむとしては
死しなざりし
わが来こしかたのをかしく悲かなし
322
函館はこだての臥牛ぐわぎうの山やまの半腹はんぷくの
碑ひの漢詩からうたも
なかば忘わすれぬ
323
むやむやと
口くちの中うちにてたふとげの事ことを呟つぶやく
乞食こじきもありき
324
とるに足たらぬ男をとこと思おもへと言いふごとく
山やまに入いりにき
神かみのごとき友とも
325
巻煙草まきたばこ口くちにくはへて
浪なみあらき
磯いその夜霧よぎりに立たちし女をんなよ
326
演習えんしふのひまにわざわざ
汽車きしやに乗のりて
訪とひ来きし友ともとのめる酒さけかな
327
大川おほかはの水みづの面おもてを見みるごとに
郁雨いくうよ
君きみのなやみを思おもふ
328
智慧ちゑとその深ふかき慈悲じひとを
もちあぐみ
為なすこともなく友ともは遊あそべり
329
こころざし得えぬ人人ひとびとの
あつまりて酒さけのむ場所ばしよが
我わがが家いへなりしかな
330
かなしめば高たかく笑わらひき
酒さけをもて
悶もんを解げすといふ年上としうへの友とも
331
若わかくして
数人すにんの父ちちとなりし友とも
子こなきがごとく酔ゑへばうたひき
332
さりげなき高たかき笑わらひが
酒さけとともに
我わが腸はらわたに沁しみにけらしな
333
?呻あくび噛かみ
夜汽車よぎしやの窓まどに別わかれたる
別わかれが今いまは物足ものたらぬかな
334
雨あめに濡ぬれし夜汽車よぎしやの窓まどに
映うつりたる
山間やまあひの町まちのともしびの色いろ
335
雨あめつよく降ふる夜よの汽車きしやの
たえまなく雫しづく流ながるる
窓まど硝子ガラスかな
336
真夜中まよなかの
倶知安駅くちあんえきに下おりゆきし
女をんなの鬢びんの古ふるき痍きずあと
337
札幌さつぽろに
かの秋あきわれの持もてゆきし
しかして今いまも持もてるかなしみ
338
アカシヤの街?なみきにポプラに
秋あきの風かぜ
吹ふくがかなしと日記にきに残のこれり
339
しんとして幅広はばひろき街まちの
秋あきの夜よの
玉蜀黍たうもろこしの焼やくるにほひよ
340
わが宿やどの姉あねと妹いもとのいさかひに
初夜しよや過すぎゆきし
札幌さつぽろの雨あめ
341
石狩いしかりの美国びくにといへる停車場ていしやばの
柵さくに乾ほしてありし
赤あかき布片きれかな
342
かなしきは小樽をたるの町まちよ
歌うたふことなき人人ひとびとの
声こゑの荒あらさよ
343
泣なくがごと首くびふるはせて
手ての相さうを見みせよといひし
易者えきしやもありき
344
いささかの銭ぜに借かりてゆきし
わが友ともの
後姿うしろすがたの肩かたの雪ゆきかな
345
世よわたりの拙つたなきことを
ひそかにも
誇ほこりとしたる我われにやはあらぬ
346
汝なが痩やせしからだはすべて
謀叛気むほんぎのかたまりなりと
いはれてしこと
347
かの年としのかの新聞しんぶんの
初雪はつゆきの記事きじを書かきしは
我われなりしかな
348
椅子いすをもて我われを撃うたむと身構みがまへし
かの友ともの酔ゑひも
今いまは醒さめつらむ
349
負まけたるも我われにてありき
あらそひの因もとも我われなりしと
今いまは思おもへり
350
殴なぐらむといふに
殴なぐれとつめよせし
昔むかしの我われのいとほしきかな
351
汝なれ三度みたび
この咽喉のどに剣けんを擬ぎしたりと
彼かれ告別こくべつの辞じに言いへりけり
352
あらそひて
いたく憎にくみて別わかれたる
友ともをなつかしく思おもふ日ひも来きぬ
353
あはれかの眉まゆの秀ひいでし少年せうねんよ
弟おとうとと呼べば
はつかに笑ゑみしが
354
わが妻つまに着物きもの縫ぬはせし友ともありし
冬ふゆ早はやく来くる
植民地しよくみんちかな
355
平手ひらてもて
吹雪ふぶきにぬれし顔かほを拭ふく
友とも共産きようさんを主義しゆぎとせりけり
356
酒さけのめば鬼おにのごとくに青あをかりし
大おほいなる顔かほよ
かなしき顔かほよ
357
樺太からふとに入いりて
新あたらしき宗教しうけうを創はじめむといふ
友ともなりしかな
358
治をさまれる世よの事無ことなさに
飽あきたりといひし頃ころこそ
かなしかりけれ
359
共同きようどうの薬屋くすりや開ひらき
儲まうけむといふ友ともなりき
詐欺さぎせしといふ
360
あをじろき頬ほほに涙なみだを光ひからせて
死しをば語かたりき
若わかき商人あきびと
361
子こを負おひて
雪ゆきの吹ふき入いる停車場ていしやばに
われ見送みおくりし妻つまの眉まゆかな
362
敵てきとして憎にくみし友ともと
やや長ながく手てをば握にぎりき
わかれといふに
363
ゆるぎ出いづる汽車きしやの窓まどより
人ひと先さきに顔かほを引ひきしも
負まけざらむため
364
みぞれ降ふる
石狩いしかりの野のの汽車きしやに読よみし
ツルゲエネフの物語ものがたりかな
365
わが去される後のちの噂うはさを
おもひやる旅出たびではかなし
死しににゆくごと
366
わかれ来きてふと瞬またたけば
ゆくりなく
つめたきものの頬ほほをつたへり
367
忘わすれ来きし煙草たばこを思おもふ
ゆけどゆけど
山やまなほ遠とほき雪ゆきの野のの汽車きしや
368
うす紅あかく雪ゆきに流ながれて
入日影いりひかげ
曠野あらのの汽車きしやの窓まどを照てらせり
369
腹はらすこし痛いたみ出いでしを
しのびつつ
長路ちやうろの汽車きしやにのむ煙草たばこかな
370
乗合のりあひの砲兵士官はうへいしくわんの
剣つるぎの鞘さや
がちやりと鳴なるに思おもひやぶれき
371
名なのみ知しりて縁えんもゆかりもなき土地とちの
宿屋やどや安やすけし
我わが家いへのごと
372
伴つれなりしかの代議士だいぎしの
口くちあける青あおき寝顔ねがほを
かなしと思おもひき
373
今夜こんやこそ思おもふ存分ぞんぶん泣ないてみむと
泊とまりし宿屋やどやの
茶ちやのぬるさかな
374
水蒸気すゐいじようき
列車れつしやの窓まどに花はなのごと凍いてしを染そむる
あかつきの色いろ
375
ごおと鳴なる凩こがらしのあと
乾かわきたる雪ゆき舞まひ立たちて
林はやしを包つつめり
376
空知川そらちがは雪ゆきに埋うもれて
鳥とりも見みえず
岸辺きしべの林はやしに人ひとひとりゐき
377
寂莫せきばくを敵てきとし友ともとし
雪ゆきのなかに
長ながき一生いつしやうを送おくる人ひともあり
378
いたく汽車きしやに疲つかれて猶なほも
きれぎれに思おもふは
我われのいとしさなりき
379
うたふごと駅えきの名な呼よびし
柔和にうわなる
若わかき駅夫えきふの眼めをも忘わすれず
380
雪ゆきのなか
処処しよしよに屋根やね見みえて
煙突えんとつの煙けむりうすくも空そらにまよへり
381
遠とほくより
笛ふえながながとひびかせて
汽車きしや今いまとある森林しんりんに入いる
382
何事なにごとも思おもふことなく
日ひ一日いちにち
汽車きしやのひびきに心こころまかせぬ
383
さいはての駅えきに下おり立たち
雪ゆきあかり
さびしき町まちにあゆみ入いりにき
384
しらしらと氷こほりかがやき
千鳥ちどりなく
釧路くしろの海うみの冬ふゆの月つきかな
385
こほりたるインクの罎びんを
火ひに翳かざし
涙なみだながれぬともしびの下もと
386
顔かほとこゑ
それのみ昔むかしに変かはらざる友ともにも会あひき
国くにの果はてにて
387
あはれかの国くにのはてにて
酒さけのみき
かなしみの滓をりを啜すするごとくに
388
酒さけのめば悲かなしみ一時いちじに湧わき来くるを
寝ねて夢ゆめみぬを
うれしとはせし
389
出だしぬけの女をんなの笑わらひ
身みに沁しみき
厨くりやに酒さけの凍こほる真夜中まよなか
390
わが酔ゑひに心こころいためて
うたはざる女をんなありしが
いかになれるや
391
小奴こやつこといひし女をんなの
やはらかき
耳朶みみたぼなども忘わすれがたかり
392
よりそひて
深夜しんやの雪ゆきの中なかに立たつ
女をんなの右手めてのあたたかさかな
393
死しにたくはないかと言いへば
これ見みよと
咽喉のんどの痍きずを見みせし女をんなかな
394
芸事げいごとも顔かほも
かれより優すぐれたる
女をんなあしざまに我われを言いへりとか
395
舞まへといへば立たちて舞まひにき
おのづから
悪酒あくしゆの酔ゑひにたふるるまでも
396
死しぬばかり我わが酔ゑふをまちて
いろいろの
かなしきことを囁ささやきし人ひと
397
いかにせしと言いへば
あをじろき酔ゑひざめの
面おもてに強しひて笑ゑみをつくりき
398
かなしきは
かの白玉しらたまのごとくなる腕うでに残のこせし
キスの痕あとかな
399
酔ゑひてわがうつむく時ときも
水みづほしと眼めひらく時ときも
呼よびし名ななりけり
400
火ひをしたふ虫むしのごとくに
ともしびの明あかるき家いへに
かよひ慣なれにき
401
きしきしと寒さむさに踏ふめば板いた軋きしむ
かへりの廊下ろうかの
不意ふいのくちづけ
402
その膝ひざに枕まくらしつつも
我わがこころ
思おもひしはみな我われのことなり
403
さらさらと氷こほりの屑くづが
波なみに鳴なる
磯いその月夜つきよのゆきかへりかな
404
死しにしとかこのごろ聞ききぬ
恋こひがたき
才さいあまりある男をとこなりしが
405
十年ととせまへに作つくりしといふ漢詩からうたを
酔ゑへば唱となへき
旅たびに老おいし友とも
406
吸すふごとに
鼻はながぴたりと凍こほりつく
寒さむき空気くうきを吸すひたくなりぬ
407
波なみもなき二月にぐわつの湾わんに
白塗しろぬりの
外国ぐわいこく船せんが低ひくく浮うかべり
408
三味線さみせんの絃いとのきれしを
火事くわじのごと騒さわぐ子こありき
大雪おほゆきの夜よに
409
神かみのごと
遠とほく姿すがたをあらはせる
阿寒あかんの山やまの雪ゆきのあけぼの
410
郷里くににゐて
身投みなげせしことありといふ
女をんなの三味さみにうたへるゆふべ
411
葡萄色えびいろの
古ふるき手帳てちやうにのこりたる
かの会合あひびきの時ときと処ところかな
412
よごれたる足袋たび穿はく時ときの
気味きみわるき思おもひに似にたる
思出おもひでもあり
413
わが室へやに女をんな泣なきしを
小説せうせつのなかの事ことかと
おもひ出いづる日ひ
414
浪淘沙らうたうさ
ながくも声こゑをふるはせて
うたふがごとき旅たびなりしかな
二
415
いつなりけむ
夢ゆめにふと聴ききてうれしかりし
その声こゑもあはれ長ながく聴きかざり
416
頬ほの寒さむき
流離りうりの旅たびの人ひととして
路みち問とふほどのこと言いひしのみ
417
さりげなく言いひし言葉ことばは
さりげなく君きみも聴ききつらむ
それだけのこと
418
ひややかに清きよき大理石なめいしに
春はるの日ひの静しづかに照てるは
かかる思おもひならむ
419
世よの中なかの明あかるさのみを吸すふごとき
黒くろき瞳ひとみの
今いまも目めにあり
420
かの時ときに言いひそびれたる
大切たいせつの言葉ことばは今いまも
胸むねにのこれど
421
真白ましろなるラムプの笠かさの
瑕きずのごと
流離りうりの記憶きおく消けしがたきかな
422
函館はこだてのかの焼跡やけあとを去さりし夜よの
こころ残のこりを
今いまも残のこしつ
423
人ひとがいふ
鬢びんのほつれのめでたさを
物もの書かく時ときの君きみに見みたりし
424
馬鈴薯ばれいしよの花咲はなさく頃ころと
なれりけり
君きみもこの花はなを好すきたまふらむ
425
山やまの子この
山やまを思おもふがごとくにも
かなしき時ときは君きみを思おもへり
426
忘わすれをれば
ひよつとした事ことが思おもひ出での種たねにまたなる
忘わすれかねつも
427
病やむと聞きき
癒いえしと聞ききて
四百里しひやくりのこなたに我はうつつなかりし
428
君きみに似にし姿すがたを街まちに見みる時ときの
こころ躍をどりを
あはれと思おもへ
429
かの声こゑを最一度もいちど聴きかば
すつきりと
胸むねや霽はれむと今朝けさも思おもへる
430
いそがしき生活くらしのなかの
時折ときおりのこの物ものおもひ
誰たれのためぞも
431
しみじみと
物ものうち語かたる友とももあれ
君きみのことなど語かたり出いでなむ
432
死しぬまでに一度いちど会あはむと
言いひやらば
君きみもかすかにうなづくらむか
433
時ときとして
君きみを思おもへば
安やすしかりし心こころにはかに騒さわぐかなしさ
434
わかれ来きて年としを重かさねて
年としごとに恋こひしくなれる
君きみにしあるかな
435
石狩いしかりの都みやこの外そとの
君きみが家いへ
林檎りんごの花はなの散ちりてやあらむ
436
長ながき文ふみ
三年みとせのうちに三度みたび来きぬ
我われの書かきしは四度よたびにかあらむ
手套を脱ぐ時
437
手套てぶくろを脱ぬぐ手てふと休やむ
何なにやらむ
こころかすめし思おもひ出でのあり
438
いつしかに
情じやうをいつはること知しりぬ
髭ひげを立たてしもその頃ころなりけむ
439
朝あさの湯ゆの
湯槽ゆぶねのふちにうなじ載のせ
ゆるく息いきする物もの思おもひかな
440
夏なつ来くれば
うがひ薬ぐすりの
病やまひある歯はに沁しむ朝あさのうれしかりけり
441
つくづくと手てをながめつつ
おもひ出いでぬ
キスが上手じやうずの女をんななりしが
442
さびしきは
色いろにしたしまぬ目めのゆゑと
赤あかき花はななど買はせけるかな
443
新あたらしき本ほんを買かひ来きて読よむ夜半よはの
そのたのしさも
長ながくわすれぬ
444
旅たび七日なのか
かへり来きぬれば
わが窓まどの赤あかきインクの染しみもなつかし
445
古文書こもんじよのなかに見みいでし
よごれたる
吸取紙すひとりがみをなつかしむかな
446
手てにためし雪ゆきの融とくるが
ここちよく
わが寝飽ねあきたる心こころには沁しむ
447
薄うすれゆく障子しやうじの日影ひかげ
そを見みつつ
こころいつしか暗くらくなりゆく
448
ひやひやと
夜よるは薬くすりの香かのにほふ
医者いしやが住すみたるあとの家いへかな
449
窓まど硝子ガラス
塵ちりと雨あめとに曇くもりたる窓まど硝子ガラスにも
かなしみはあり
450
六年むとせほど日毎ひごと日毎ひごとにかぶりたる
古ふるき帽子ばうしも
棄すてられぬかな
451
こころよく
春はるのねむりをむさぼれる
目めにやはらかき庭にわの草くさかな
452
赤煉瓦あかれんぐわ遠とほくつづける高塀たかべいの
むらさきに見みえて
春はるの日ひながし
453
春はるの雪ゆき
銀座ぎんざの裏うらの三さん階がいの煉瓦れんぐわ造づくりに
やはらかに降ふる
454
よごれたる煉瓦れんぐわの壁かべに
降ふりて融とけ降ふりては融とくる
春はるの雪ゆきかな
455
目めを病やめる
若わかき女をんなの寄よりかかる
窓まどにしめやかに春はるの雨あめ降ふる
456
あたらしき木きのかをりなど
ただよへる
新開町しんかいまちの春はるの静しずけさ
457
春はるの街まち
見みよげに書かける女をんな名なの
門札かどふだなどを読よみありくかな
458
そことなく
蜜柑みかんの皮かわの焼やくるごときにほひ残のこりて
夕ゆふべとなりぬ
459
にぎはしき若わかき女をんなの集会あつまりの
こゑ聴きき倦うみて
さびしくなりたり
460
何処どこやらに
若わかき女をんなの死しぬごとき悩なやましさあり
春はるの霙みぞれ降ふる
461
コニヤツクの酔ゑひのあとなる
やはらかき
このかなしみのすずろなるかな
462
白しろき皿さら
拭ふきては棚たなに重かさねゐる
酒場さかばの隅すみのかなしき女をんな
463
乾かわきたる冬ふゆの大路おほぢの
何処いづくやらむ
石炭酸せきたんさんのにほひひそめり
464
赤赤あかあかと入日いりひうつれる
河かはばたの酒場さかばの窓まどの
白しろき顔かほかな
465
新あたらしきサラドの皿さらの
酢すのかをり
こころに沁しみてかなしき夕ゆふべ
466
空色そらいろの罎びんより
山羊やぎの乳ちちをつぐ
手てのふるひなどいとしかりけり
467
すがた見みの
息いきのくもりに消けされたる
酔ゑひのうるみの眸まみのかなしさ
468
ひとしきり静しづかになれる
ゆふぐれの
厨くりやにのこるハムのにほひかな
469
ひややかに罎びんのならべる棚たなの前まへ
歯はせせる女をんなを
かなしとも見みき
470
やや長ながきキスを交かはして別わかれ来きし
深夜しんやの街まちの
遠とほき火事かじかな
471
病院びやうゐんの窓まどのゆふべの
ほの白じろき顔かほにありたる
淡あはき見覚みおぼえ
472
何時いつなりしか
かの大川おほかはの遊船いうせんに
舞まひし女をんなをおもひ出でにけり
473
用ようもなき文ふみなど長ながく書かきさして
ふと人ひとこひし
街まちに出でてゆく
474
しめらへる煙草たばこを吸へば
おほよその
わが思おもふことも軽かろくしめれり
475
するどくも
夏なつの来きたるを感かんじつつ
雨後うごの小庭こにはの土つちの香かを嗅かぐ
476
すずしげに飾かざり立たてたる
硝子ガラス屋やの前まへにながめし
夏なつの夜よの月つき
477
君きみ来くるといふに夙とく起おき
白しろシヤツの
袖そでのよごれを気きにする日ひかな
478
おちつかぬ我わが弟おとうとの
このごろの
眼めのうるみなどかなしかりけり
479
どこやらに杭くひ打うつ音おとし
大桶おほをけをころがす音おとし
雪ゆきふりいでぬ
480
人気ひとけなき夜よの事務じむ室しつに
けたたましく
電話でんわの鈴りんの鳴なりて止やみたり
481
目めさまして
ややありて耳みみに入いり来きたる
真夜中まよなかすぎの話はなし声ごゑかな
482
見みてをれば時計とけいとまれり
吸すはるるごと
心こころはまたもさびしさに行ゆく
483
朝朝あさあさの
うがひの料しろの水薬すゐやくの
罎びんがつめたき秋あきとなりにけり
484
夷なだらかに麦むぎの青あをめる
丘をかの根ねの
小径こみちに赤あかき小櫛をぐしひろへり
485
裏山うらやまの杉生すぎふのなかに
斑まだらなる日影ひかげ這はひ入いる
秋あきのひるすぎ
486
港町みなとまち
とろろと鳴なきて輪わを描えがく鳶とびを圧あつせる
潮しほぐもりかな
487
小春日こはるびの曇くもり硝子ガラスにうつりたる
鳥影とりかげを見みて
すずろに思おもふ
488
ひとならび泳およげるごとき
家家いへいへの高低たかひくの軒のきに
冬ふゆの日ひの舞まふ
489
京橋きやうばしの滝山町たきやまちやうの
新聞しんぶん社しや
灯ひともる頃ころのいそがしさかな
490
よく怒いかる人ひとにてありしわが父ちちの
日ひごろ怒いからず
怒いかれと思おもふ
491
あさ風かぜが電車でんしやのなかに吹ふき入いれし
柳やなぎのひと葉は
手てにとりて見みる
492
ゆゑもなく海うみが見みたくて
海うみに来きぬ
こころ傷いたみてたへがたき日ひに
493
たひらなる海うみにつかれて
そむけたる
目めをかきみだす赤あかき帯おびかな
494
今日けふ逢あひし町まちの女をんなの
どれもどれも
恋こひにやぶれて帰かへるごとき日ひ
495
汽車きしやの旅たび
とある野中のなかの停車場ていしやばの
夏草なつくさの香かのなつかしかりき
496
朝あさまだき
やつと間まに合あひし初秋はつあきの旅出たびでの汽車きしやの
堅かたき麺麭ぱんかな
497
かの旅たびの夜汽車よぎしやの窓まどに
おもひたる
我わがゆくすゑのかなしかりしかな
498
ふと見みれば
とある林はやしの停車場ていしやばの時計とけいとまれり
雨あめの夜よの汽車きしや
499
わかれ来きて
燈火あかり小暗をぐらき夜よの汽車きしやの窓まどに弄もてあそぶ
青あをき林檎りんごよ
500
いつも来くる
この酒肆さかみせのかなしさよ
ゆふ日ひ赤赤あかあかと酒さけに射さし入いる
501
白しろき蓮沼はすぬまに咲さくごとく
かなしみが
酔ゑひのあひだにはつきりと浮うく
502
壁かべごしに
若わかき女をんなの泣なくをきく
旅たびの宿屋やどやの秋あきの蚊帳かやかな
503
取とりいでし去年こぞの袷あはせの
なつかしきにほひ身みに沁しむ
初秋はつあきの朝あさ
504
気きにしたる左ひだりの膝ひざの痛いたみなど
いつか癒なほりて
秋あきの風かぜ吹ふく
505
売うり売うりて
手垢てあかきたなきドイツ語ごの辞書じしよのみ残のこる
夏なつの末すゑかな
506
ゆゑもなく憎にくみし友ともと
いつしかに親したしくなりて
秋あきの暮くれゆく
507
赤紙あかがみの表紙へうし手て擦ずれし
国禁こくきんの
書ふみを行李かうりの底そこにさがす日ひ
508
売うることを差さし止とめられし
本ほんの著者ちよしやに
路みちにて会あへる秋あきの朝あさかな
509
今日けふよりは
我われも酒さけなど呷あふらむと思おもへる日ひより
秋あきの風かぜ吹ふく
510
大海だいかいの
その片隅かたすみにつらなれる島島しまじまの上うへに
秋あきの風かぜ吹ふく
511
うるみたる目めと
目めの下したの黒子ほくろのみ
いつも目めにつく友ともの妻つまかな
512
いつ見みても
毛糸けいとの玉たまをころがして
韈くつしたを編あむ女をんななりしが
513
葡萄色えびいろの
長椅子ながいすの上うへに眠ねむりたる猫ねこほの白じろき
秋あきのゆふぐれ
514
ほそぼそと
其処そこら此処ここらに虫むしの鳴なく
昼ひるの野のに来きて読よむ手紙てがみかな
515
夜よるおそく戸とを繰くりをれば
白しろきもの庭にわを走れり
犬いぬにやあらむ
516
夜よの二時にじの窓まどの硝子ガラスを
うす紅あかく
染そめて音おとなき火事くわじの色いろかな
517
あはれなる恋こひかなと
ひとり呟つぶやきて
夜半よはの火桶ひをけに炭すみ添そへにけり
518
真白ましろなるラムプの笠かさに
手てをあてて
寒さむき夜よにする物もの思おもひかな
519
水みづのごと
身体からだをひたすかなしみに
葱ねぎの香かなどのまじれる夕ゆふべ
520
時ときありて
猫ねこのまねなどして笑わらふ
三十路みそぢの友とものひとり住ずみかな
521
気弱きよわなる斥候せきこうのごとく
おそれつつ
深夜しんやの街まちを一人ひとり散歩さんぽす
522
皮膚ひふがみな耳みみにてありき
しんとして眠ねむれる街まちの
重おもき靴音くつおと
523
夜よるおそく停車場ていしやばに入いり
立たち坐すわり
やがて出いでゆきぬ帽ばうなき男をとこ
524
気きがつけば
しつとりと夜霧よぎり下おりて居をり
ながくも街まちをさまよへるかな
525
若もしあらば煙草たばこ恵めぐめと
寄よりて来くる
あとなし人びとと深夜しんやに語かたる
526
曠野あらのより帰かへるごとくに
帰かへり来きぬ
東京とうきやうの夜よをひとりあゆみて
527
銀行ぎんかうの窓まどの下したなる
舗石しきいしの霜しもにこぼれし
青あをインクかな
528
ちよんちよんと
とある小藪こやぶに頬白ほほじろの遊あそぶを眺ながむ
雪ゆきの野やの路みち
529
十月じふぐわつの朝あさの空気くうきに
あたらしく
息いき吸すひそめし赤坊あかんぼのあり
530
十月じふぐわつの産さん病院びやうゐんの
しめりたる
長ながき廊下ろうかのゆきかへりかな
531
むらさきの袖そで垂たれて
空そらを見上みあげゐる支那しな人じんありき
公園こうゑんの午後ごご
532
孩児をさなごの手てざはりのごとき
思おもひあり
公園こうゑんに来きてひとり歩あゆめば
533
ひさしぶりに公園こうゑんに来きて
友ともに会あひ
堅かたく手て握にぎり口疾くちどに語かたる
534
公園こうゑんの木この間まに
小鳥ことりあそべるを
ながめてしばし憩いこひけるかな
535
晴はれし日ひの公園こうゑんに来きて
あゆみつつ
わがこのごろの衰おとろへを知しる
536
思出おもひでのかのキスかとも
おどろきぬ
プラタスの葉はの散ちりて触ふれしを
537
公園こうゑんの隅すみのベンチに
二度にどばかり見みかけし男をとこ
このごろ見みえず
538
公園こうゑんのかなしみよ
君きみの嫁とつぎてより
すでに七月ななつき来きしこともなし
539
公園こうゑんのとある木蔭こかげの捨椅子すていすに
思おもひあまりて
身みをば寄よせたる
540
忘わすられぬ顔かほなりしかな
今日けふ街まちに
捕吏ほりにひかれて笑ゑめる男をとこは
541
マチ擦すれば
二に尺しやくばかりの明あかるさの
中なかをよぎれる白しろき蛾がのあり
542
目めをとぢて
口笛くちぶえかすかに吹ふきてみぬ
寝ねられぬ夜よの窓まどにもたれて
543
わが友ともは
今日けふも母ははなき子こを負おひて
かの城址しろあとにさまよへるかな
544
夜よるおそく
つとめ先さきよりかへり来きて
今いま死しにしてふ児こを抱だけるかな
545
二三ふたみこゑ
いまはのきはに微かすかにも泣なきしといふに
なみだ誘さそはる
546
真白ましろなる大根だいこんの根ねの肥こゆる頃ころ
うまれて
やがて死しにし児このあり
547
おそ秋あきの空気くうきを
三尺四方さんじやくしはうばかり
吸すひてわが児この死しにゆきしかな
548
死しにし児この
胸むねに注射ちうしやの針はりを刺さす
医者いしやの手てもとにあつまる心こころ
549
底そこ知しれぬ謎なぞに対むかひてあるごとし
死児しじのひたひに
またも手てをやる
550
かなしみの強つよくいたらぬ
さびしさよ
わが児このからだ冷ひえてゆけども
551
かなしくも
夜よ明あくるまでは残のこりゐぬ
息いききれし児この肌はだのぬくもり
ー(をはり)ー
明治四十三年十一月廿八日印刷
明治四十三年十二月 一日発行
著 者 石 川 啄 木
発行者 西 村 寅次郎
印刷者 横 田 五十吉
印刷所 横 田 活版所
発行所 東 雲 堂 書 店